2011/12/04

1995年という時代の"罪"



"輪るピングドラム"というアニメを毎週観ている。
アニメを毎週観るなんて幼稚園の頃のドラゴンボール以来だ。
ただ、これには理由があって、ツイッターでそのアニメが95年の地下鉄サリン事件をモチーフにしている、と知ったからだ。
モチーフと言ったって、暗喩というか、ぼかして描いただけだろ、と半信半疑で観てみたら、
むしろ、直喩と言っても良い位、「そのまんま」描かれていた。
「そのまんま」というのは、通常はフィクションに於いては「外す」、
事件が起きた年月日、事件当時のニュース映像が、無論、完璧に性格ではないにしても、
加工なしに取り上げられている。


これは一大事である。


なぜなら、ジャーナリストの森達也が強調するように、この事件は、
「もはや忘れ去られようとしている存在」であったからだ。


もっと正確に言えば、「タブー」ですらあった。


なぜ、タブーか。それを説明するのは容易ではない。
なぜなら、タブーとは、意識的に我々が作り出すものではなく、むしろ、無意識的な我々の生活に対する防衛反応が作り出すものだからだ。


ただ、これも森達也が再三、指摘しているが、タブーになった理由は一言につきるかもしれない。
「我々もオウムに入る可能性があった」
からだ。


いやいや、それはない、と思われる方もいるだろうが、オウムの特に林郁夫(サリン事件実行犯の一人)の手記などを読んでいると、「なんとまともな人だ」という印象しか受けない。


彼は人の命を救うため、医者になり、徐々に「医学の限界」を感じ、「精神的救済」に傾倒していく。その独白は、なんら矛盾することなく、我々が共感できる範囲内にある。


しかし、ここで落とし穴がある。


林郁夫だけが落ちた落とし穴ではない、95年前後を生きた、我々、全ての人間が落ちた落とし穴だ。


それは、バブル崩壊で「本当のこころの豊かさ」(今、思うと本当に奇妙な言葉だ)が叫ばれ始めた背景をもとに、
「自分探し」を肯定したことだ。しかも、「日本の社会全体が」肯定してしまったことだ。


これは、大変なことである。


なぜ大変かというと、まず「自分探し」という言葉の定義から始めなくてはならない。


「自分探し」とは、簡単に言えば、アイデンティティの確立に至る道程を意味する。


「私は~である」の「~」を埋める作業だ。


しかし、「~」は、自分で埋められるものではない。
当時、角川文庫の宣伝のキャッチコピーが、「自分探しの旅」だったと記憶しているが、
文庫にはさまったチラシには、線路を背景に、モデルが文庫を抱え、上記のキャッチコピーが大きく描かれていた。


つまり、外部と触れ合って、「自分とは誰なのか」を探すのだが、その探索の旅程に、多大なる犠牲があることを、あの時代、つまり95年前後は隠蔽していた。


フロイトを引き合いに出すまでもなく、アイデンティティを確立する作業には2つの要素が不可欠である。それは、承認と否定である。


あまり精神分析学に偏りたくはないが、
まず、無条件の承認があり、幼児は全能感を抱く。世界と自分は未分化の状態である。その後、「父」(象徴的な意味で、必ずしも実父を意味しない)による去勢がある。つまり、全能感が否定される。その否定によって、幼児は、「世界」と「自分」を切り離して考えるようになり、自立した個人としての道を歩み始める。


精神分析学を少しでも知っている人にとっては聞き飽きた、常套句であるが、数々の神話、伝統行事、つまり、人類学的な研究により、「父」による否定は、数多くの儀式と同一形態を持つことが証明されつつある。


では、95年前後に行われた過ち、もしくは誰もが陥った穴とは何か。
「自分探し」の負の要素とは何か。


それは、もう言うまでもないが、象徴的な意味における「父」の不在である。
つまり、全能感を持ったまま、「否定してくれる人」がいない。そして、その「否定してくれる人」の亡霊を、探し回る旅の時代である。


その亡霊は、どこにいるのか。


どこにもいない。なぜなら、本来、象徴的意味での父とは、不快なものであり、拒絶すべきものだからだ。
それでもやってくるのが、本当の「父」である。否定。それは、強制的に執行されるものであり、理不尽なものでなければならない。
心地よくあってはならないし、ましてや、自分から探しにいくものでもない。


首根っこをつかまれて、「罰」は執行され、我々は「断念」をする。自分と繋がっていたはずの世界と、強制的に区分けされる。


それがアイデンティティの確立である。


もうお気づきであろうが、これは「自分探しの旅」などという生易しいものではない。
宣伝のキャッチコピーに使われるようなものでもない。
社会が奨励するような、類いのものでもない。


もっと残酷で、絶対的なものだ。


我々(95年)は、間違えた。その「否定」は自分で「選びとる」ものだと。


全共闘世代(団塊世代)、95年世代(オウム世代)、ニート世代(00年以降)は、密接な負の連鎖で結ばれている。


ただ、私は、1981年生まれで、生身をもって、団塊世代を語ることはできない。


ただ、30歳になって、そして、アニメで95年を振り返る機会を得て、確信したことがある。


それは、95年という年が、どれほどの負の遺産を、今の時代(2011年)に遺してしまったかということだ。


それについては、いずれ書くとして、私の意識は、今、輪るピングドラムによって、95年という時代に遡行し、現代を振り返るという視点を持っている。


その視点は、輪るピングドラムによる大きな気付きで、直感的に「これは正しい」と感じるものであったので、それは引き続き考えていきたい。


我々は、どこで間違ったのだろうか。どう間違ったのだろうか。ということを今回書いてみた。


では、その間違いが、どう(無意識的にしろ)、00年代へと繋がっていくのか。これから、それを考えてみたい。それは、95年を生きた人間、そして、95年が何かを隠蔽したことを「知っている」人間としての義務である。