2011/12/12

【音楽】神聖かまってちゃん "ぺんてる"

明日、神聖かまってちゃんのライブに行ってきます。

神聖かまってちゃんの魅力は、一言で言えば「直接性」。

すぐそこで、本気で叫んでいるものを、私は無視することができません。
それも、自己陶酔ではなく、むしろ、自分のリアルタイムを執拗なまでに探求し、吐き出すこと。

これは、いわゆる中二病とは言いません。

なぜなら、中二病とは、自分自身と向き合うことから逃れる手段だからです。
私はそれを否定するつもりはありません。誰しもが、自分自身と向き合うようになるまでに、
「ほかの誰かになろうとしたり」「自分の現在を否定したり」「極度に理想化された自己水準を設定し、失敗したり」「他者を必要以上に怖がったり」するものです。

でも、神聖かまってちゃんは、一見、「ここではないどこか」を 探しているようで、そうではありません。

何かに憧れること、それが得られないこと、でも欲しがってしまうこと、失われた過去にしがみついてしまうこと。
それらを、全て「今」として、受け入れています。

の子さんは、"ぺんてる"の歌詞で、こう語りかけます。

"僕は大人になりました 冷たい風に吹かれて どうしようもない大人になりました"

これは、皮肉でもなんでもありません。本当に、大人になって事実を歌っているのです。
それに畳み掛けるように、こう続けます。

"ジャポニカ学習ノートのページがどんどんめくれてく 僕が学んだことなんて 風の中へと消えていく あーもうどうするか あーもう知らねぇぞ 僕は"

過去への郷愁を語りながら、もう戻れないことを悟りきっている。
そして、懐古的になるでもなく、諦めるでもなく、ただ「狂う」。このリアリティ。

しかし、
"風に吹かれてしまおう 落ち葉のようになれ果てよう"
と告白しつつ、

"考えて生きて生きてくような価値なんてどこにあるんだと僕は思うのです"
と、唐突に、大人になった現在も「変わっていない」「変わらない」価値観を述べる。
もはや、これは郷愁ではありません。現在の、「狂ってるけど、本当の言葉」。

"放課後から続く蛙道 どーでもいいやとほざきつつ どこまでもどこまでも生きたいと 願っているのかよ"
これほど正直で、ポジティブな歌詞を私は知りません。
過去を振り返り嘆く自分を突き放し、何度も「現在」に立ち返ろうとする。
あまりにも、リアルな歌詞です。

"殺してやると呟いて 頭を下げて謝った 僕はいつまでも そんな糞ゲロ野郎でさ"
ここで、過去と今の自分は、たとえ「大人になった」としても、繋がっている。繋がらざるを得ない。過去の自分からも、今の自分からも逃れようがない。その事実を確認しつつ、主人公は、「今」発言しています。感動的な言葉です。

ラストは
"また、ぺんてるにぺんてるに"
の繰り返しでこの歌は終わりを迎えます。
この主人公は、「ぺんてるにもう一度行けば、救われる」とは思っていません。
でも、「ぺんてるに行きたい」というのも本音。
つまり、主人公の本当の本音は
「どうすることもできないかもしれない。よく分からない。僕は、今を生きるしかない。それは変えることができない。でもどうすればいいのか分からない。過去に戻りたい。でも、今を生きるしかない..」という、「無限ループの、狂った生き方」です。

でも、そこに私はリアリティを感じるのです。
直接、私の「今」を刺激するのです。

名曲だと、思います。

というわけで、もう言い訳が効かないほど「大人になった」自分(30)は、神聖かまってちゃんを、明日、聴きに行きます。

「大人になること」
その、狂ったリアリティを、正面から、きちんと受け止めてきたいと思います。

神聖かまってちゃん "ぺんてる" PV (Youtube)

【音楽】マイブラ (My Bloody Valentine)

マイブラ -ノイズによるディスコミュニケーション、その後に訪れる新たな契約 -

1.Googleで調べたら、 disるは、disrespectの略だった。。 尊重しない、尊敬しないだから、 受け流すってより、その人の価値を無視する。侮辱する。軽蔑する。 とか、そんな感じ。

2.disrespectって面白い概念だな。 だって、相手の存在を認めつつ、それを否定するんだから、 無関心とかよりも、かなり強い。。 感情がこもってるし、なんか怨念を感じる。接続ではなく切断。

3.ただ、切断するにも理由がある場合がある。 切断することによって失うことよりも、得ることのほうが多い場合。 得るものとは、再び生き返った、新たな契約。再構築されたコミュニケーション。

4.ここで思い出すのは、音楽のシューゲイザー。じっと、足元を見て、観客を見ずに、轟音を鳴らしまくる、バンド。ある意味、観客をひたすら、disる、パフォーマンス。
マイブラがその代表。 マイブラの、"you made me realize"での、ひたすら20分くらいノイズだけを轟音で鳴らされる修行のようなライブを体験した。あれは、観客をある意味でdisること、もしくは、観客とのディスコミュニケーションを経ての、新しい契約、繋がりを獲得する経験だった。

5.新たな契約には、一旦、関係をリセットする必要があって、あれだけ長時間ノイズの嵐を観客に体験させる。 バンドと観客の関係は、そこでカオス化し、究極のゼロ地点まで、引き下げられる。脱コード化、脱共感、脱感動、脱コミュニケーション。 そして、もう一度、同じリフに帰った時、新たな関係が結ばれる。

6.マイブラと観客の新たな関係とは何か。。新しい契約。新約聖書になぞらえれば、(神との)新たな約束だ。 マイブラと観客の間の関係ではない。長く聴き苦しいほどのノイズの世界のとき、観客は音楽への依存を断念する。そのとき、もう一つの何かに気付く。

7.マイブラの音楽と観客という、分かりやすい関係が破綻しかかった時、観客は、マイブラへの依存を辞め、自ら、神を見出す。ノイズはそのための装置に過ぎない。 もう一度、イントロへ帰った時、ものすごい歓声が起こるのは、安心ではなく、その逆だ。何かを手に入れた喜びだ。しかも、自力で。

8.2008年のフジロックでは、マイブラを観た後、他のバンドが聴けなくなったという声が聞かれたが(自分もそういう状態になった)、それは、マイブラしか聴けないということではない。 音楽とは何かが、分からなくなったのだ。 なぜか。 観客とコミュニケーションするのが、ライブだという固定概念が外されたからだ。

9.つまり、ライブ=バンドと観客の共感。という、最低限守られていたルール(たとえ音響派でもアンビエントでも音楽のジャンルは問わない)が、変えられたのだ。 はっきり言えば、音楽ファンが音楽に依存しているという、暗黙の了解、そしてそれを良しとされている場(ロックフェス)で、 その依存を断ち切ったのだ。

10.無意識ながら、自立してしまった音楽ファンは、一時的にしろ、 「音楽を必要としなくなった」 それが、08'フジロックは初日のマイブラで終わったと言われる原因ではないか。 いや、そう思ったり言っているのは、自分を含めたごく少数派かもしれない。

11.ただ、マイブラのアクトが終わった後の、星の美しさが、普段見慣れている星と、比べものにならない程、美しかったのは、事実だ。はっきり覚えている。 あの時、輝く星を観て、白痴のように、清々しくあっけらかんと感動したのは、星の輝きが変わったのではなく、自分の何かが変わったのだ。

【映画】 "セブンス・コンチネント" ミヒャエル・ハネケ


1.ハネケのセブンスコンチネントという映画では、日常生活を成立させるに必要な文法がまず、詳細に描かれてた。歯磨きとか食器洗いとか…。 で、まず水槽が破壊され、紙幣が捨てられ、文法が無化する。


2.文法が無化された後、一家でテレビを眺める。よくある歌番組が映っている。 ここで、初めて脱コードが示されたのではないか。 つまり順序が重要だ。破壊されるのは文法が先で、最終的にコードが破壊される。コードを破壊するためにハネケは周到な用意をしている。


3.ハネケは分かっている。非日常的な行為によって、文法は壊せても、まだコードは壊せないのだ。 一家が心中するという、理解不可能な事件をモチーフに、周囲との遮断の可能性を探っている。そして、それがどのようにして可能か観客に問うている。


4.説得性を持たせるために、 まず日常文法の破壊、そして、そのあとにようやく訪れる、脱コード性。周囲との完全な遮断は、行為によって用意され、感情によって完結する。 この段階を追体験させることで、地球上に六つしかないはずの場所に、コードを通り抜けた第七の大陸を初めて出現させる。


5.難解な映画だ。。 でも、ここまで説明しなければ、セブンスコンチネントという概念は、完結しない。 要は、完全にコミュニケーションから外れた場所を創り出すのも、 並大抵の努力ではできないし、理論的裏付けが、どうしても必要になってくる。 それほど、この社会から逃れるのは難しい。


6.日常生活を徹底的に観察し、そこに人間との断絶を見出すこと。
(これは、私が研究しているアンディ・ウォーホルと共通する点である。ちなみに、ハネケの"ベニーズ・ヴィデオ"ではウォーホルの絵画が登場する)


7.付け加えると、映画セブンスコンチネントでの一家でテレビを観るシーン。 テレビの中で歌う歌手は、正しい形で「表現」している。歌番組という文法の中で、それに即して歌っている。 しかし、一家は受け取らない。伝達は不成功に終わっている。 正しい文法に則った表現が、なぜ不成功に終わるのか。


8.受け取る側と発信側の溝ゆえだ。どういった溝か。 それが、コードの本質だ。 全ての、「表現、伝達」の条件が整っているにも関わらず、それを不成功に終わらせるもの。 家族は、家を全て破壊した。残るのは何か。心だ。感情とも言い換えられる。しかし、果たして感情は残っているのか。


9.そもそも、感情とは何か。どうやって感情があるか無いか計れるのか。 それは、発信者からのメッセージを受け取る意思、もしくは意識があるかどうかだ、とハネケは言っているのではないか。 つまり、相手のコードに自分のコードを合わせる意思。これが感情の本質だと言っているのではないか。


10.そして、この映画では両親にその意思が無くなっていることを明確に示すためにテレビが使われる。 ただ、ハネケの他の映画、隠された記憶などでも、執拗にテレビは登場する。そして、それは登場人物に伝達されない。内容が世界の情勢など、登場人物と無関係なものが恣意的に選ばれている。


11.表現、伝達されるが、それを受け取らない。伝達の失敗。 日常生活の中で繰り返されるコードの無力化。その象徴としてのテレビと人の間の伝達の失敗。 画面のあらゆるところにコードの不在が暗示される。


12. 重要なのは、"感情の不在"、もしくは"感情の喪失"の本質は、まさに、その日常的に繰り返される"コードの不在"に潜んでいるということだ。







【映画】"白いリボン" ミヒャエル・ハネケ



「白いリボン」 ミヒャエル・ハネケ監督


(これはTwitter上で"白いリボン"について書いたものを、まとめたものです。なので、思考が時系列。)


1.ミヒャエル・ハネケの「白いリボン」観た。もう大傑作だわ。言葉にならない。 あえて言えば、これまで「何か」を暗示し続けたハネケだけど、その暗示する「何か」が、より、「巨大」に「(歴史的な意味で)総合的」になった感じ。 すごいの観たなあ…。 世界最高傑作ってこういう映画なんだな。


2.映画「白いリボン」は、モノクロだし、長いし、暗いし、意味不明な個所も多いので、軽々しくはおすすめはできない。 


3.でも、ハネケの「白いリボン」は世界中の人、全員が観たほうがいい。意味が分からなかったとしても、それでいい。 あの謎は、経験しとくと、歴史の見方の根源が身につくと思う。


**


1.白いリボンについて。ひとつ謎がある。色々起こる事件の犯人は、誰か?という謎はどうでもいい。最大の謎は、あの映画に、なぜ語り手が存在するのか、ということである。そして、それがなぜ、教師なのか。 そして、語り手の優位点は、語りたくない事実に関しては、黙っていて構わないことである。


2.別に教師が犯人とか、そういうことを言いたいわけじゃない。 なぜ、語り手が存在するのか。 それが最大の謎だと個人的に思うだけである。


3.ハネケの映画で自分が観た限りでは、語り手がいる映画は一本もない。 白いリボンも、ハネケの力量をすれば、語り手なしでも、容易に映画として成り立たせることができるだろう。そう感じざるを得ない。 要は語り手は、あの映画の異分子なのである。


4.無論、時系列の整理、物語の推進力として、語り手が必要な場合も多い。 しかし、白いリボンにおいては、時系列を整理するどころか、混乱に貶め、物語の推進力になるどころか、物語としての整合性を壊している。 なんとも不思議な語り手である。 謎としか、言いようがない。あの教師。一体、誰なんだ。


5.あと、ついでに、教師は、エゴにまみれる村人の中で、唯一、完璧に善良な人物として描かれる。 なぜか。それは、教師が並外れて善良な人間だからではない。 語り手だから、善良に振る舞えるし、良きことしか語らなくて済むからである。 そこが、一回観た限りでは、最大の謎として、頭に残っている。


6.あの映画においての最大の権力者は、男爵でも牧師でもドクターでもなく、教師だということは言える。あの映画のシステム内に於いては。 システムそのものをコントロールしているのは教師。そして、その権限は未知数。 もう一回観てみます。


***


1.「白いリボン」、二回目観た。もう、この映画は言葉にする必要がない。むしろ、安易に言葉にしてはいけない。この映画は、「体験」することが重要。ひとりでも多くの人に「体験」してもらいたい。 ほかの映画と比べる必要もない。ハネケの過去作と比較する必要もない。その領域を完全に超えている。


2.「白いリボン」、謎解きであれこれ語り合う楽しさはある。今日も「あのシーンはどういう意味だったんだろう」と、鑑賞の帰り道、友人と話すのは楽しかった。 ただ、ディテールについて語るのと、この映画の全体像について語るのは、次元が全く異なる。 この映画の全体像を語るのは、完全に不可能だ。


3.なぜなら、白いリボンは、この世界そのものだからだ。この世界の細部について語ることはできても、この世界の全体について語ることはできない。それと全く同じように、白いリボンという映画全体について語ることはできない。白いリボンは、そういう映画だと思う。


4.「白いリボン」全体を言葉にするのは、無理と言ったけど、ひとつだけ。シニフィアン(記号表現)としての失敗にも関わらずシニフィエ(記号内容)は伝わること。(例を挙げれば切りがない)。それが、世界が変わる(歴史が変わる)本質的原動力となること。これがテーマという事だけは、確実に言える。


5.冒頭、語り手が、この様な主旨のことを述べる「これから語ることは記憶が曖昧だったり、噂話が元だったりする(=表現の失敗の可能性)、しかし、この出来事は、話されなければならない(=内容は伝達され得る可能性)」これは、実はテーマそのものだ。この構造が物語内部でも繰り返しただ反復される。


6.ひとつ例を挙げれば、教室で騒いでいた子供たちを牧師が叱るシーンがある。しかし、中心人物として叱られたクララは、実は騒ぎに加わっていない。シニフィアンとしては、牧師は完全に誤解している。しかし、クララの不信、悪意というシニフィエは、結果、牧師に伝達されている。この齟齬の繰り返しだ。


7.また、物語自体も、画面を極端に暗くしたり登場人物を増やして、シニフィアン(表現)を、恣意的に失敗している。しかし、それで観客は、不安、不信という、その時代のシニフィエを受け取る。 この構造が本質的原動力となり、世界が変わり、歴史が変わる。そして、観客の意識をも変える。見事だ。


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1.白いリボンはファシズムの根源を描いていると書いてしまったけど、訂正。 もちろん、テロリズム、ファシズムがあの映画のモチーフなのは、明白。 でも、あの映画の素晴らしさはそこだけではない。暴力を描くことで、人間の普遍的な有り様、歴史の普遍的な変化の仕方まで描ききったことに価値がある。


2.暴力やファシズム、テロリズムを描いた映画なんて、山ほどある。 ハネケも一貫して、このモチーフを取り上げ続けている。 でも、「隠された記憶」や「ファニーゲーム」は、みんなにはオススメできない。まだ、「普遍的」とまでは言えない。 「白いリボン」は、みんなにオススメできる映画。


3.LA WEEKLY紙が、白いリボンを「すでに古典」と評したのは、そういう意味だろう。


***


1.白いリボンと、倫理という概念は、つながる部分はあっても、部分的なテーマでしかなく、主要はテーマではないと自分も思っています。白いリボンを倫理という曖昧なキーワードで語るには、かなり厳密な、倫理という言葉に対する定義が必要になりますし…。


2.ただ、倫理を内なる倫理、外的倫理的と分けて考えると考えやすいかとは思います。 内なる倫理とは、神に対する垂直的なタテの倫理、外的倫理とは、世間に対するヨコの倫理です。


3.白いリボンにおいて、橋を渡る少年が、外的倫理に突き動かされた教師に叱られ理由を問い詰められると、内なる倫理を告白します。神は自分を生かすのか試したかったと。これは、少年の、外部(村社会)から遮断された、内なる倫理を告白する場面ととらえました。


4.しかし、教師は少年に、確かな内なる倫理の存在を認めながらも、見過ごし、再び村へ戻します。そこには牧師がおり、牧師が別の内なる倫理(宗教的倫理)で諭します。少年の内部に二つの内なる倫理が発生します。葛藤と齟齬が生じ、涙はその現れかもしれません。


5.結果として、少年マルティンは、プライオリティとして牧師の言う内なる倫理を優先し、消化しようとします。しかし、逆にないがしろになるのが、少年「自身」の内なる倫理、そしてさらにないがしろにされ、むしろ攻撃されるのが、村の倫理(外的倫理)です。


6.こういった意味で、白いリボンについても、倫理というキーワードで語ること、また、内的倫理が外的倫理に攻撃されたとき、そして過剰適応したとき、何が犠牲になるのか。(それは、村の倫理と、一番弱い者(2つのリンチ事件)です) 


7.こう考えると倫理というキーワードと、倫理という概念そのものが抱える二重性から、白いリボンは見直せるかもしれません。 もう一度、じっくり考えてみます。


***


1.白いリボンについての、倫理というキーワードでの解読。。いや、実は自分も倫理というものが何か明確に分からないのです。縦の倫理(超越的なものに対する倫理)は、もはや建前にすぎず、横の倫理(共同体的倫理、掟)のみで動いているのが、あの村の状態だということは分かります。つまり、教会のシーンが多いにも関わらず、縦の倫理、つまり(宗教的)超越的存在への怖れが、存在しない。


2.さらに共同体的倫理(横の倫理)すら混乱している。ドクターつまり、職業的倫理の象徴的存在であるはずの人が近親相姦をし、農村的倫理の象徴である男爵と家令も、村で起こる混乱、子供たちの行動を制御できていない。 つまり、横の倫理も崩れているわけです


3.そしてやはり、問題になるのは牧師一家でしょう。縦の倫理が存在しないこの村では、宗教的超越者(縦の倫理)に基づいて行動する模範としての牧師も横の倫理にのみ縛られている。単に家父長的威厳を守ろうとするだけ。


4.しかし、牧師は宗教的指導者。立場上は、縦の倫理に一番近い人です。ハネケが牧師一家を中心に描いたのはこの矛盾を描きたかったのではないか。


5.ここで、「では、縦の倫理は全く無かったのか」という問いが重要です。


6.縦の倫理は、在ります。形のみとして。それは、クララが置いた鳥の死骸が十字架だったように、横の論理に押しやられ、変わりに純粋な暴力として姿を変えて、潜んでいます。つまり、問題は横の倫理のみがはびこっていることではなく、縦の倫理の変容の仕方です。


7.横の倫理に押しやられ、抑圧され潜在化した縦の倫理は消えていません。むしろ、潜在化したことによって姿を歪められ、より邪悪で強力な姿に変容します。それは、あの時代のドイツ独特のものだったでしょう。潜在的な縦の倫理は、子供たちの混乱した行動、そして(安易に言っていいのか分かりませんが)、ナチズム、つまり縦の倫理が捻じ曲がり、大きく変化を遂げた形態へ変遷していきます。


7.つまり、横の倫理に圧迫された、人々の縦の倫理への欲求が、ナチズムを生んだ。簡単に言うとそうなります。


8.つまり、問題なのは、横の倫理のみで支配された世界ではなく(そのような世界は今の日本もそうですし、多く存在します)、抑圧され、潜在化してしまった縦の倫理の行方です。ドイツのあの村の人々は、素朴な縦の倫理への欲求を、隋所で示しています。


9.死とは何か尋ねる子供、クララの十字架を象った鳥の死骸、長兄マルティンの告白。特にマルティンの告白は純粋な宗教的超越者との対話を望むものです。それがあの村で如何にして歪んで行ったか。それがあの映画が指し示すものだと、今は考えています。


10.まとめると、「横の倫理によって支配された共同体」において、「縦の倫理が歪み」、「変容」し、後に「ドイツにナチズムを生んだ」という考察です。


11.ラストシーンは、こう読み取れます。「横の倫理のはびこった村」は、「それによって抑圧された縦の倫理」に「逆転され」、最終的に「新たに形を変えた」「縦の倫理」によって、「罰を受け」「再び支配される」。これがラストシーンの意味だと捉えています。


***
(以下、議論を分かり易くする為、表現を変更。「縦の倫理=倫理/横の倫理=掟」とする)


1.以下に書くのはあくまで憶測です。白いリボンにおいて、あの子供たちがナチズムに走ったのは「復讐」です。誰に対してかというと、牧師、ドクター、そして、あの村全体にはびこる「掟」に対する復讐です。


2.掟に従って育った者(子供 たち)が、それを無意識に模倣して、将来、自分たちも厳密な掟のある社会を作った(すなわちナチズムを作った)という考えがもしあったら、それは全くの間違いです。その逆です。


3.なぜ、ハネケはこの映画を創るにあたり、膨大な量の、当時の「教育」についての資料を読んだと言っているのか。なぜ「教育」なのか。なぜ、国際状況や社会状況、経済状況ではないのか。そして、なぜ、第「一次」世界大戦前なのか。それは、倫理と深く関係します。


4.つまり、ハネケの回答はこうです。厳密な意味での倫理が、将来ナチの党員になる子供たちの中で、捻じ曲げられたとしたら、この時期、つまり、幼少期から青年期、教育を受ける年齢においてしかありえません。


5.つまり、倫理が生来のものに近いものであると仮定したら、それを抑圧するには、よほどの強い力が、「早い時期」にかからないと、その人の倫理を捻じ曲げることなどできません。できるとしたら、それは「教育」のみです。


6.教育、それはつまり「掟」の習得です。掟とは、牧師のリボンのような強い規律を求めるものだけでなく、共同体全体のルールをも指します。つまり、一見、無害に見える教師が、語り手として大きな役割を担わされているのも、共同体全体のルールという、見えないほうの「掟」を象徴し、また容認した、最大の、罪を犯した人であるからです。


7.子供たちが持つ、生まれながらの倫理、それをあの村は封じ込めました。家庭内、学校、共同体全体において、子供たちを「教育」しました。そして、それはある程度、成功したかに見えました。


8.しかし、映画ラストで第一次世界大戦という、大きな社会変革が起こります。その敗戦によって、ドイツは経済的に困窮し、社会構造が変わります。すなわち、これまでの「掟」が通用しなくなります。するとどうなるか。封じ込められていた、本能が蘇ります。


9.つまり、「倫理」の復権です。それまで強い「掟」により手足を縛られていたものが、「掟」が無くなった瞬間、噴出します。ナチズムの初期の支持者は、農民、労働者だったと言います。つまり、古い「掟」に縛られていた者たち、古い「教育」を受けてきた者たちです


10.彼らは、倫理がつよく捻じ曲げられていた人々です。言い換えれば、絶対的超越者との対話を望みながらも、それを果たせなかった人々です。図式化すれば、常に掟(相対的関係)にさらされ、倫理(絶対的関係)に触れることを禁じられていた人々です。


11.非常に図式的ですが、人々がゲルマン民族の「絶対性」を支持し、ドイツがヨーロッパの一つの「国」にすぎないという「相対性」を拒否した。これがナチズムの根底にあるのではないか。そして、そのような極端な「絶対性」への希求は、潜在的に農村社会の中で培われていったものではないか。


12.これが、ドイツの第一次大戦敗戦後、非常に民主的な憲法を作りながらも、国家の絶対性へと流れてゆく、底流となったのではないか。つまり、ドイツは戦争に負け、多額の負債、また、他国に対する怨念で、国家主義に走ったのではない。


13.もともと、ドイツという国がそういう国であった、ということです。潜在的に農村では絶対性への希求が高まっていた。それが、偶発的に起きた、第一次大戦という契機によって噴出した。きっかけは何でも良かったのです。


14.しかし、ある意味。戦争である必要もあった。なぜなら、ドイツ国内では、「掟」の力が強く、それを自ら壊すことは不可能だからです。サラエボという「国外」で起きた事件により、しかも戦争という大規模な社会変革によってしか、倫理の生きる道はなかった。それが第一次大戦だった。


15.倫理は戦争によって、命を得た。簡略化しすぎですが、そういう図式です。少なくとも、「白いリボン」が提示するのは、そういう図式です。村の外が一切描かれないこと、突然ニュースによって開戦が告げられること、映画の終盤、ドクターの一家という、村を構成する主要な存在が消え、


16.犯人が分かったとアンナが告げ、旧社会的な村の掟が、一気に崩壊していくことが暗示されます。そして、ラストで、「掟」の守り主たちが教会の席の側につき、新たな超越者(超越者なので画面には映らない)が演題に立つ所で映画は幕を閉じます。


17.それは、倫理の勝利を意味します。子供たちの良心の勝利とも言えます。そして、その良心とは無論、旧社会の掟に対する復讐を意味し、良心と絶対性、絶対性と排他性、排他性と暴力がつながることは言うまでもありません。


18.最後に「白いリボン」の宣伝ポスターについて。マルティンが白いリボンを巻かれ、涙を流す姿のものです。マルティンは超越者と接近しようとして橋の淵を渡り咎められ、自慰行為をも咎められ


19.つまり、生まれながらの宗教的倫理と、肉体的欲求、その両方を抑圧された存在として描かれています。その子供が流す涙とは何か。それは掟の中でも生き続けたマルティンの良心であり、いずれ掟から放たれる野生そのものです。これは将来のナチズムそのものです。


20.良心に従おうとし、絶対的超越性を求めたにも関わらず、「教育」によってそれらを禁じらた子供。彼らの倫理感は、禁じられていたゆえ、現実との接触をなくし、過度に理想的なまま大人になっても、保存されます。それは、理想的すぎるゆえ、イデオロギーとして強い形を持ちます。


21.普通は現実との摩擦のゆえ、倫理は常に揺れ動くもので、絶対的な形はとりません。しかし、潜伏し、真の意味での現実的な教育を受けなかった倫理は、過度に純粋なゆえ、イデオロギーとなってしまうのです。


22.非常に危険な。その意味で、ナチズムとは、過度に純粋な形の倫理を根底に持っています。それは子供たちの心の姿、そのものです。ナチズムの理想主義、民族絶対性、これらの極端な倫理感は、子供たちが望んでも、幼少時代に手に入れられなかった理想そのものです。


23. 結び付きを提示できたかは分かりませんが、(自分でも整理がまだ完全にできていません)、おおまかなヴィジョンとしては、殊に白いリボン内部でのヴィジョンに従えば、このように、子供の純粋な倫理とナチズムの関係を説明できるような気がします。


***


1.リンチ事件のどこが倫理的なのか、ということ。それには、また倫理とは何かという語彙説明から入らなければならないのです。


2.まず、倫理を良心と同義語として扱ったのは、腐敗した掟に対し、神(超越者)との関係から生まれた倫理は、外的影響を受けていない点で純粋であり、自らの意思にのみ従う、という点で良心と書いたのです。


3.しかし、戦時中とそうでない時の倫理が異なるように、良心(倫理)とはその状況の「中」での判断であって、いついかなる場合でも「絶対的に正しい」ものではありません。


4.だから、子供たちが、その状況下で「正しい」と思えば、それは倫理(良心)に基づいた行動なのです。そして、それはよい方向にも悪い方向にも向かいます。その「悪い方向」の例がリンチ事件です。


5.つまり、倫理(良心)に従って行動したかどうかは、その結果には左右されないもので、行動する者のモチベーションにかかっているものなのです。だから、仮に子供たちがリンチをしたとしても、それが自らの良心(倫理)に従っていれば、倫理的行為と呼べるのです。


6.ただ、これは極論です。一般的意味で言って、知的障害者に対するリンチが良心的などとは、誰が考えても間違っていると感じるでしょう。おそらく観客も全員そう感じるはずです。 そして、実はここから整理がついてないのですが子供たちもそれに気付いているのです。


7.あの、非常に複雑な話になります。そして、説明する自信がありません…。子供たちは、自らの倫理に従って行動できる村の唯一の存在でありながら、村の構成員でもあるのです。つまり、自分たちがやっていることの「悪さ」に気づいている。この二重性です。


8.この二重性の中で子供たちは生きている。だから、犯人だとしても(仮にですが)、名乗り出ない。質問に対しても「知らない(イッヒ・ヴァイス・ニヒト)」としか答えない。なぜか?その子供たちの心情は?実は私もうまく説明できないのです。


9.あの質問に対して毅然と答えるクララの存在感。あれは凄まじいものがあります。「凄まじい」としか、今は言えません。


10.ただ、付け加えれば、自分の前の言葉で言えば、クララの存在とは、「掟がはびこり腐敗した村で」「捻じ曲げられた縦の倫理が」「変容化(異物化)」した姿です。 ただ、その「変容」の内容が分からない。どのような変容か。とても難しいです。


11.ついでに、ナチズムにつながると前書きましたが、この変容の内容が、そのキーになるにも関わらず、実はうまく説明できていません。だから、ナチズムへのつながりも保留です。問題はクララなのです。クララこそが、縦の倫理が変容した姿なのです。


12.ほとんど全ての問題が、クララに結集しているにも関わらず、分からない。クララ、何を考えているのだ… クララ、お前にとって倫理とは何なのだ。何を、それほど頑に守っているのだ。お前にとって、この世界は、一体何なのだ?

【雑記】村上春樹 "アンダーグラウンド"




1.無差別殺人がなんで良くないかというと、それは命の大切さとか、そういう事じゃない。その人の人生を破壊することが、どれほど愚かな事なのかに対する無知だ。リアリティをもって無差別殺人を考えられないとしたら、それは人間として、最大の罪だ。


2.ただ、無差別殺人は、しょっちゅう起こるわけではないので、学習する必要がある。被害者、遺族が、どのようにそれまでの人生を歩んできて、その事件で、どのように人生が狂ったのか、感覚として知る必要がある。


3.それには、読書も重要な手段だと思う。個人的イマジネーションだけでは限界がある。 地下鉄サリン事件を扱った、村上春樹のアンダーグラウンド。被害者と遺族への超ロングインタビューで構成されてる分厚い本。読むのしんどいけど、これが無差別殺人か、と感覚をもって教えられる。必読だと思います。


4.あ、そうか。自分は地下鉄サリン事件、酒鬼薔薇事件の世代だけど、どの事件についての本を読むかは、世代によって違うのか…。 リアリティがなきゃなぁ…。そのへん難しい。世代に合った、目を通すべきドキュメント(第一次資料)は変わってくるのか。 今、二十歳前後の人には何が良いんだろう?