2012/01/18

日記 (ゆとり世代の事とか...)

今日、始めて知ったんですけど、いわゆる「ゆとり教育」では、「心のノート」というのがあるらしいですね。
この情報は、いわゆる「ゆとり世代」に属する人から聞いた情報なので、間違いないかと思います。(地域差はあるかも)
いや、新鮮でした。

この話をして下さったのは、同じゼミの人(22)で、(以降、「いわゆる」を付けるのが面倒なので省略します)ゆとり世代に属する人です。

「心のノート」(2時間あるらしい)には、自分のことを書くらしいです。
で、興味深かったのは、「心のノート」のことを、その話してくれた方が「自家撞着的」なるものと、指摘していたことです。

ここからは、なんとなくの推測ですが、
つまり、自分のことを書くには、自分と比較する、他者なり社会なり、外的要素がないと、文章として成立させるのは難しいけど、あえて、まだ、世間とあまり接触のない時期に、
「自分」について書く。

この矛盾を言っているのだと思います。
あと、「自分」(self)というものが、まだはっきり分かっていない段階で、自分について書く。単純に情報不足です。(「他者がいて、初めて自分がいる」とかそういう議論よりも、遥かに前の段階として)

でも、これは、いかにも文科省が考えそうなことです。というか、自分も、こういう教育をする側になっていたかもしれません。
知識を上から、強制的に植え付ける教育が、自分の世代の特徴(アラサー?自分は1981年生まれです)だとしたら、
「もっと、自分自身を見つめる事が必要!」
となって、「心のノート」をつけさせて、自分自身と向き合う練習をさせよう、
というのは、安易ですが、正直、自分も考えそうなことです。

困難に直面するのは、ゆとり教育を受けさせられる側です。

なぜなら、「とにかく、知識を叩きこむ。自分のことを振り返ってる暇なし」というある種、偏った教育があって、その次のステップとして、ゆとり教育があるのに、
その歴史を知らされず、これもまた、強制的に「自分と向き合う」ことをさせられるのですから。

完全に、上の世代の反動です。それを、もろに押し付けられているだけ。

あと、私(1981年代生まれ)くらいの世代だと、「いつゆとり教育が実地されたのか知らない人」もいます。まあ、私です。今日、教えてもらいました。

なぜなら、自分の受けた教育以外、知りようがないからです。かなりの興味を持って調べない限り。。

ネット上で、「このゆとりが」などと、ネガティヴな意味で使われはじめた時、ものすごく不思議な気がしたのを覚えています。

だって、教育を受ける側には、何の責任もないわけですから。非難される意味が分かりません。非難されるとしたら、それを実施した大人でしょう。当たり前です。

でも、やけに、「ゆとり、ゆとり」と言われてる。

そんなに違うのか、というのが正直なところでしたが....
やっぱり違うのかもしれません。今日、ゆとり世代の事を少し詳しく聞いて、そう思いました。その人は、話すだけで、相手がゆとり世代かどうか、なんとなく、分かるそうです。

自分は、まったく分かりません。

その人の情報によると、「議論が成立しにくい」「批判的な意見に対する免疫が弱い」という特徴があるそうです。

えっ、そうなの?そんなの議論の訓練すれば、すぐ身に付くんじゃない?
と思いましたが、ハッとしました。

たしかに、もや〜っと思い当たる節があるのです。
自分は、基本的に人生の負け組なので、何周か遅れで、人生マラソンをしているのですが、
そうすると、10歳下の人と、同等の位置に所属することがよくあります。

今も、学部の一年ですし。

そうすると、ああ、そういえば、、ということが、ないこともないのです。

なんとなく、ぶつかり合うことを避ける感じ。
「空気を読む」という概念(自分が学生のころはなかった言葉)が、コミュニケーションの場の最深部まで浸食していること。

今の大学の芸術学科の気風なのかな、、と勝手に解釈していましたが。


精神分析学では、再三言われていることですが、
「自分をみつめる」ことは不可能です。
「本当の自分を見つける」ことも不可能です。

人間とは、「理想我」と「現実我」とに常に分裂した状態にあり、「本当の自分」なるものは、妄想です。
よって、自分をみつめることも、幻影をみつめることと同様に不可能です。
もちろん、探求するという意味で、自分の内面を探ることは、大切なことで、可能なことですが、その先に、はっきりとした「自分」(セルフ・イメージ)を発見することは、あり得ません。

ただ、危惧するのは、ゆとり教育が「本当の自分」なるものが、あたかもあるかのように偽り、それを探させている。そして、ゆとり世代の人たちは、その幻影につきまとわれている。

そして、もし、幻影である「本当の自分」をゆとり世代の人が発見したとしたら、
それは、単なる安易な自己肯定の結果であり、他者との摩擦を避け、「自分はこれなんだ」という試行錯誤のない思い込みに過ぎません。

ただ、「本当の自分」を見つけようとしたら、自己肯定するしかありません。
デカルトではないですが、「考えるゆえに我あり」というように、
「我あり」、つまり、肯定で語るしか、何かの定義はできないのです。

否定形、つまり、「〜でなく、〜でもなく、〜でもないものが、自分である」という定義は、難易度を極めます。

それよりは、「こうである」と、肯定的に定義したほうが、論理的にも、思考的にも、感覚的にも、楽でしょう。

ただ、それは、全て間違いです。

「考えるゆえに我あり」まで行き着くのは、かなりの否定がそのプロセスに含まれています。否定に否定を重ねた結果、懐疑論者としてのデカルトが唯一、否定できなかったのが、
「自分は考えている」ということです。

全然、安易な肯定的自己定義ではありません。むしろ、悲観的で、そこまで思い詰めなくても、、というレベルです。

デカルトは変人なので、いいとしても、ゆとり教育は、「自己定義」と「自己肯定」を、ほぼ同じものとして捉えさせてしまう危険性に満ちあふれています。

だからといって、ゆとり世代以前の教育が「良かった」とは、口が裂けても言えませんが(その教育を受けてきた当事者として)、
「安易な自己肯定」は、つまらない人間を生み出すだけで、非常に危険です。
そして、もう危険になっています。たぶん。

なんとなく感じていた、どこか不安そうな、いわゆるゆとり世代の人。
(繰り返して言いますが、彼らに罪はありません。
また、取り返しのつかないことでもありません。
また、自分の世代のほうが良かったとか、そういうことでは全くありません)

ゆとり教育を受けた当事者から、教育の内容、特徴を聞いて、背筋がゾッとするような、
つまり、「思い当たる感」があり、「そうか..なるほど...」という感覚を味わいました。

まあ、だからって、全共闘世代が素晴らしいとか、我々、団塊ジュニアが素晴らしいとか、
もうちょと下(ゆとり教育直前)の世代が素晴らしいとか、
そういうこともないんですけどね。

そもそも、世代論なんてくだらないものです。
いくら、その世代に「こういう人が多い」というのは論じることはできたとしても、
当たり前ですが、これだけ情報が多い中、個々が人生を選択し、それに向かって突き進めば、世代なんて、関係ないものです。

それを前提としても、「教育」って案外、世代の空気とリンクしているかもなぁ、と、思った次第です。

「教育」って言葉、大っ嫌いだけど、大事かもしれません。