「根源的ネガティヴィティ」という言葉は、5年ほど前から、私のキーワードなのだけど、まだ解明されていない。
ただ、非常に魅力的な言葉で、自分の関心領域を、一言で表してくれていることには、ずっと、変わりはない。
映画「メランコリア」で、そこへの興味が再発。
再発というより、何度もそこに立ち戻っているような気がする。
抑鬱状態。つまり、世界、そして私自身の「全否定」。
そこに思想は「ない」。ただ、あるのは「否定」の衝動だけだ。
でも、あれこれ、「否定すること」に「理由」をつけようとする。
あたかも、その「理由」が「生きている意味」であるかのように。
しかし、突き詰めて考えると(実際は突き詰めて考えていないが)、鬱衝動に理由などない。
「全世界が滅びればいい」という衝動に、理由はない。
理由がないからこそ、実行しないのだが、それは別問題だ。実行するか、しないかは倫理の問題で、鬱衝動には(繰り返しになるが)、倫理はない。すなわち、(普遍的な)理由もない。
映画、メランコリアで描かれるのは、そういっった世界観(の肯定)だが、
この問題意識は、多くの芸術作品に共通する。
私が「ネガティヴィティ」(否定性)の前に、「根源的」と付けるのは、このネガティヴィティが、万人共通のものだと、信じているからだ。
芸術は私の関心分野なので、芸術に偏るが、ほかの分野でもそうかもしれない。
ただ、分からないことについて書くのはやめておく。
芸術においての、「根源的ネガティヴィティ」の重要性を強調したい。
すぐ思い浮かぶのは、井坂洋子の詩だ。彼女の「箱入豹」という詩集は、残念ながら現在、絶版だが、私は二冊持っている。あまりにも、私にとっての「理想の芸術」だからだ。
「箱入豹」ほど、「根源的ネガティヴィティ」に明確に射程を合わせた、正確な言葉のみで綴られた文章を、私は知らない。
ただ、これが絶版というのも、事実だ。(『現代詩手帳・井坂洋子全集 Ⅱ』には収められているが)
また、『メランコリア』が、カンヌにおいて、主演女優賞は獲得したものの、その他については無冠だったことも事実だ。
ちなみに、ラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、カンヌ映画祭で、パルムドールを受賞している。また、映画としても大ヒットしたことは、記憶に新しい。
同じ監督の作品でも、どうして、こうも世間の評価が違うのか。
それは、端的に言えば、『ダンサー〜』の場合は、「根源的ネガティヴィティ」に「理由」を付与しているからだ。
ラストシーンでは、主人公は死ぬが、それが息子ジーンへと引き継がれる、希望の証として描かれる。
ただ、このラストシーンについて、主人公演じるビョークと、監督トリアーとの間で、諍いに近いものがあったことを忘れてはならない。
ビョークはこの「主人公が死ぬ」というラストシーンに反対した。トリアーはこのラストシーンで押し切った。
ただ、その折半として、ラストに、「これは最後の歌ではない」という文章が付けられるという、あたかも妥協策のようなものが、付けられた。
そして、映画はヒットしたのである。おそらく、その妥協策が功を奏したのであろう。
鑑賞者は、「単純な絶望」を観る事を拒否し、そこに「理由付け」を求めた。
それは端的に「あまりに救いがないから」という言説に回収される。
しかし、トリアーは「救い」や「理由」など、本当は、最初から求めてはいない。
トリアー自身が、「ダンサー〜」の次の作品、「ドッグヴィル」のメイキング映像で明らかにしているように、鬱症状に苦しみ、抗鬱薬を服用しながら、撮影をすすめている。
『メランコリア』までのトリアーの作品は、必ず、鬱症状に「理由」を付けようとしていたように思える。
しかし、それは映画の低質化を招いていた。トリアーは『メランコリア』によって復活したように思える。鬱に「理由など無い」と気付いたのだ。
それは、端的な暴力として描かれる。暴力と言っても、最大に理不尽な形での。メランコリアで言えば、巨大惑星の地球への衝突である。
それによって、人類、および、地球は消滅する。
そして、映画内で、不必要なほど強調されるのは、「地球外生命体はいない」ということで、つまり、これは宇宙人を信じるとか信じないとかの話ではなく、
「全ての生命は滅びるべきだ」というメッセージである。
もし、地球滅亡を描いても、地球外生命体が存在すれば、それは生命が存続することであり、
トリアーにとっては、それは許し難いことなのである。
つまり、『メランコリア』においては、「巨大惑星の衝突」など、単に隠喩であり、端的に「世界を滅ぼす」という概念の到達点、つまり形而上学的な概念を、スクリーンに焼き付けただけである。
眠くなってきた。。この問題は大事なので、書いたら止まらないが、それだけ、書いても書いても、辿り着けない感もある。
また、書きます。
続く(?)