2011/12/03

アンディ・ウォーホル -何も指し示さない絵画- (2010) 〈終わりに〉

〈終わりに〉



 哲学者ウィトゲンシュタインの「論理哲学論」の有名な一節に「語り得ぬものには、沈黙すべし」というものがある。[i]
 
 これまで、ウォーホルついて、ウォーホルの奇妙な立ち位置。ウォーホルの絵画内で何も起きていないこと。ウォーホルの絵画は何も指し示さないことを見てきた。よって、ウォーホルの絵画と、鑑賞者とのコミュニケーションは、不可能だと結論づけられる。我々は、ウォーホルの絵画については、コミュニケーションの不可能性を語ることはできても、それ以上を語ることはできない。


 しかし、最後に、このような奇妙で、不親切とも言える画家、ウォーホルに対し、なぜ、我々は興味を抱き続けているのか。そして、時には愛着を持つほどに夢中になるのか。それを、鑑賞者側の立場として述べて、終わりにしたい。
 そして、ウォーホルが、いったい、我々に何を残したのかに触れて、結語としたい。




 最後のキーワードは、「ウォーホルとデッドエンド」である。これまで見てきたように、結局のところ、ウォーホルには、「どん詰まり」感がある。もう、これ以上行けないという感覚。「これで終わりだ」という諦観。
 つまり、ウォーホルの本質に迫ろうとした時、結局行き着くのは、「これ以上続かない絵画」。もしくは、「どこにも行こうとしない絵画」というデッドエンドの感覚である。

 そして、デッドエンドの感覚が、私たちに深く内在的に、「快楽」を潜ませていることも、ここで触れなければならないだろう。「もうどこにも行けない」とは=「もうどこにも行かなくてよい」ということでもある。

 北アメリカの歴史を思い出してみよう。そこには、イギリスから渡航したピューリタンが、北アメリカ東部に流れつき、そこから、西へ西へと、開拓してきた歴史がある。アメリカン・スピリットとは、まがいもなく、この「開拓者精神」であり、果てぬ夢を抱いて、西へと向かう、ある種の「終わらない旅」であった。

 しかし、旅は終わった。開拓者は西海岸へとたどりついた。現在のアメリカ西海岸に位置する、カルフォルニアに、ある種の、楽観主義とともに、開拓が終わった後の、虚無感が漂っているのを、感じることができるように・・・。(ニューヨークと、カルフォルニアは、全くその意味で、別の精神性を持った都市である)



 先ほど、デッドエンドの二面性を提示した。

 1.「どこにも行けない」という閉塞感。
 2.「もうどこにも行かなくてもよい」という安堵感。

 これは、コインの裏返しである。美術を考える上で、このデッドエンドの概念はどのように言い表され得るだろうか。
1.「どこにも行けない」という閉塞感。これは、単純な言葉で言うと、美術の終焉を意味する。美術の終焉とは何か。それは、もう新しいスタイルが必要ない、もしくは生まれない、ということでは「ない」。美術の終焉とは、そのような美術史的なものではなく、あくまで「個人」に起因するものである。つまり、「創造力を奪われる」ということである。




具体的に説明しよう。絵画を前にした時、我々は少なくとも、ある種の刺激を受ける。刺激といってしまえば、漠然としている。もう少し限定しよう。我々は、絵画を前にして、認識をしている。では、認識とは何か?それは命名することである。命名。分節化と言ってもよいかもしれない。
我々はただ、絵画を眺めているとき、それは「眺めている」だけではなく、ひたすらに「分析」している。 これは人間の本質的行為である。視覚から入ってきた「わけの分からないもの」を、分節化し、最終的には、「言語」として、「理解」する。(これには、多くの反論があるだろう。必ずしも、認識と言語化は一致しないという意見も汲みしなければいけない)。
では、もうすこしソフトに「カテゴライズしている」と言おう。カテゴライズも、あるものを、切り分け、認識しやすくすることである。 しかし、美術において、カテゴライズとは、「創造」を意味する。なぜなら、美術作品を前にして、我々は、個人としてそれに向き合い、自身の感覚と照らし合わせて、「新しい」認識を得るからである。
つまり、もともと「無」だった認識が、「ある形」を持つ。 人は美術作品を通して、無から有を創り出す。それは、「創造」と呼ぶことができるのではないか。我々は、新たな美術作品を前にして、無から有を創り出そうとする。まるで、作品と呼応しあうように、我々もまた、創造しているのだ。




しかし、1.の「どこにも行けないという閉塞感」を生み出す作品がある。その代表がウォーホルの作品である。この状態を、「不幸なデッドエンド」状態と呼ぼう。


「不幸なデッドエンド」状態にある人々に対する作品が、自らと呼応できない作品と出会ったらどうであろう。呼びかけても、返事をしない作品。何も話しかけてくれない、無口な作品。こちらから歩み寄ろうとしても、さっとその姿が消えてしまう作品。つまり、分節化しようとしても、不可能な作品である。
そこには、人間の認識は働かない。分析もできない。つまり、「見る人間の中に何も起こらない」作品である。(美術館に行ったことのある人なら、誰しも、訳の分からない現代美術を観て、少し、腕組みをして考えて、一応、作品のタイトルだけ見て、首をひねって通り過ぎる人を、何人、いや、何百人と見てきたことだろう)。
「不幸なデッドエンド」状態にある人々は、自分と呼応しない作品を、無視する。 それは、作品もまた、その人間を無視しているからだ。ここに、人間と作品との不幸な、コミュニケーション不可能性が発生している。

 簡略に述べれば、不幸なデッドエンドとは、作品の認識不可能性=自身の創造不可能性=作品とのコミュニケーションの遮断、という状態である。どこにも行けない閉塞感。この閉塞感を歴史的に関係付ければ、「もう西がない」ということである。

「西へ西へ」と、「未知なるもの」を発見し、その目と足で「認識」し、自分の土地として「所有」するという行為の終わり。それは、行き場のない感情として、彷徨いつづける。(まるで、ピストルを構えるエルヴィスが、ウォーホルのキャンバス上で、亡霊のように分身し、インクの量が減るにしたがって消え去っていくように)


 これが、デッドエンドのひとつの「不幸な」かたちである。そして、とりわけウォーホルが、このような「不幸なデッドエンド」の象徴であり、また、彼らを逆なでし、不快にさせる存在であることは、言うまでもない。


 では、そのコインの裏返し、「幸福なデッドエンド」とはどのようなものか。デッドエンドが、「どこにも行かなくてよい」という安堵感になるとはどのような現象か。

それは、「分からない」ということが持つ快楽が、根底にあると言える。美術で言えば、何も感じず、認識不可能で、読解不可能であることを、「楽しむ」という、ひとつの見方をいう。これは、「不幸なデッドエンド」とは、本質的に異なる。何が異なるのか。作品ではない。観る、鑑賞者側の態度が異なることに他ならない。



作品が「分析不可能」であることを、快楽として受け止める態度。これはどういったものであろうか。どういった態度であろうか。
先ほどまで述べてきた、「不幸なデッドエンド」の当事者は、「分からない」ことを、不快に感じる、もしくは、無視する。しかし、「幸福なデッドエンド」の当事者は、「分からない」ことを、快適に感じ、むしろそこに留まろうとする。なぜか。
それは、世界の構造に対する、認識、もしくは哲学の、根本的な違いから発生する。「幸福なデッドエンド」の保持者は、世界があまりに(過度に)「認識可能」であることに気付いている。それは、この世界が意味づけという、檻に入れられた、監獄であり、我々は、その見えない檻から脱出できない、「閉じ込められた存在」であるという認識に基づく。
そして、それは、得てして無意識の認識なので、顕在化することは少ない。 しかし、潜在的に、この意味的世界を「窮屈だ」と思っている人々。 または、そう感じてしまう人々は、無意味な作品に触れたとき、そこに「意味」を見出すのではなく、逆にその「無意味さ」を鋭敏に見出す。
なぜ、鋭敏にか。それは、潜在的に、それを常に探しているからである。そして、「意味」と「無意味」の狭間に位置する、美術館という空間に足を運ぶこと、その行為そのものが、無意識的に「無意味なもの」を求めているのではないか。
「幸福なデッドエンド」の保持者は、作品を、「意味のあるもの」(理解可能なもの)と、「意味のないもの」(理解不可能なもの)を腑分けする。そして、「幸福なデッドエンド」状態の人々は、理解不可能な作品の前で、より長い時間立ち止まり、鑑賞するのだ。
それは、作品が放つ「無意味さ」の波を受け取り、そこに波長を合わすことで、普段の「意味的世界」から、一時的にしろ、解き放たれ、そこに(ハイデガー的に言えば)、己の存在の本質が現出してくる様を、感じるのである。
 
これは、「不幸なデッドエンド」状態の人々が成し遂げられなかった、創造的(クリエイティヴ)な行為を「幸福なデッドエンド」状態の人々は実現しているということか。いや、それは違う。なぜなら、「幸福なデッドエンド」状態の人々は、そこから、何も創造しないからである。
 

つまり、過度に受動的な態度を取れるという、その「現象」自体に身をおくことを自らに許せる、その時間を享受している。そこからは、何も生まれない。この「何も生まれなさ」こそが、「幸福なデッドエンド」を感じる、キーワードである。 「幸福なデッドエンド」状態の人々は、生産者であることを放棄し、単に、享受する、ある種の「空白」となる。
作品の中に、どこを探しても意味など見当たらないように、「幸福なデッドエンド」の保持者の意識のどこを探しても、積極的に認識し、分節化する態度(意味づけ)は見当たらない。
 
「幸福なデッドエンド」状態の人々は、その内なる空白を、認識するだろう。これもまた、クリエイティヴ(創造的)な態度と錯覚されるかもしれない。しかし、空白を生み出すことを、創造的とは言わない。空白を生み出す時、我々は、完全に自我の形を「放棄」し、悪く言えば、己の自我から「逃走」している。


このような、「幸福なデッドエンド」の享受者も、ウォーホルの絵に反応する。 (ただ、それには条件がある。その時、鑑賞者の中に、どれほど「空白」に対する渇望があるかどうかだ。しかし、それは、条件に過ぎない)。
おそらく、「幸福なデッドエンド」状態の人々の中で、「空白」への渇望が高まったとき、ウォーホルを無視することは不可能であろう。そして、そこに求めていた「空白」を見出し、安らぎに身をゆだねざるを得ないだろう。 
 
このように、「不幸なデッドエンド」(どこにも行けないという閉塞感を覚える人々)も、「幸福なデッドエンド」(どこにも行かなくてもよいという安堵感を覚える人々)も、両者、ともに、否定的にしろ、肯定的にしろ、ウォーホルに対して、何かを感じずにはいられない。
 

このことは、美術史が証明している。ポップアートは一つの時代の「流行りもの」ではなかった。1962年、アンディ・ウォーホルが初めて、アーティストとしてデビューした年は、美術史に刻まれている。
それは、ウォーホルが「デッドエンド」を提示したからである。 
 
 ウォーホルの作品は「不幸なデッドエンド」の人々の感情を、不快という感情であれ、常に「逆なで」し続ける。また、「幸福なデッドエンド」の人々に、「空白」を享受させる絵画として存在し続ける。(詩的な言葉で言えば、「謎」として存在し続ける)
 

 デッドエンド。それはウォーホルが発明した、「永遠に謎であることによって、永遠に忘れ去られない」という、まことに奇妙なトリックである。


[i]ウィトゲンシュタイン,L. (山元一郎訳) (2001) 『論理哲学論』 中央公論新社





〈参考文献〉

Andy Warhol (1977), The Philosophy of Andy Warhol (From A to B And Back Again) , Mariner Books
Andy Warhol and Pat Hackett, (1980), POPism The Warhol Sixties , Penguin Books
Andy WarholMike Wrenn. (1991), Andy Warhol: In His Own Words (In their own words) ,Omnibus Pr.
Klaus Honnef, (2004), Pop Art , Taschen America Llc
アーサー・C. ダントウ 他 (1997) 『アンディ・ウォーホル全版画―カタログ・レゾネ 19621987』 美術出版社
ウィトゲンシュタイン,L. (山元一郎訳) (2001) 『論理哲学論』 中央公論新社
ハイデガー,M. (関口浩訳) (2002) 『芸術作品の根源』 平凡社
バルト,R. (沢崎浩平訳) (1986) 『美術論集』 みすず書房
ピアジェ,J. (滝沢武久、佐々木明訳) (1970) 『構造主義』 白水社
ベルジー,C. (折島正司訳、解説)  (2003)  『ポスト構造主義』 岩波書店
マクシャイン,K. (1990) 『ウォーホル画集』 リブロポート
リパード,L. (宮川淳訳) (1967) 『ポップ・アート』 紀伊国屋書店
浅田彰 (1983) 『構造と力-記号論を超えて』 頸草書房
池上嘉彦 山中桂一 唐須教光 (1994) 『文化記号論 ことばのコードと文化のコード』 講談社
佐々木健一 (1985) 『作品の哲学』 東京大学出版会
佐々木健一 (1995) 『美学辞典』 東京大学出版会
西村清和 (1995) 『現代アートの哲学』 産業図書
橋爪大三郎 (1988) 『はじめての構造主義』 講談社
日向あき子 (1995) 『ポップ・マニエリスム』 冲績社
丸山圭三郎 (1981) 『ソシュールの思想』 岩波書店
丸山圭三郎 (1987) 『言葉と無意識』 岩波書店
渡邊二郎 (1998) 『芸術の哲学』 筑摩書房
DVD 『アンディ・ウォーホル ザ・コンプリート・ピクチャー』 (2004) コロムビアミュージックエンタテインメント
DVD
 『アンディ・ウォーホル スーパースター』 (2005) コロムビアミュージックエンタテインメント

© Tatsuyuki Itagaki

アンディ・ウォーホル -何も指し示さない絵画- (2010) 〈第三章 (後半)〉


〈第三章〉
何も指し示さない絵画 (後半)
 

 では、ここで、最も重要となる概念を登場させたい。「コード」(code) という概念だ。「コード」については、再び、『文化記号論』の定義を引用する

 「理想的な伝達の場合、「話し手」が内容をことばによる表現に移し替える際に参照する決まりと、「聞き手」がその表現から内容を読み取る際に参照する決まりとが同じでなければならない。このような決まりのことは、術後でコードと呼ばれ(以下略)」[ix]
 
 これは、暗黙の了解、とも言い換えられる。例えば、アニメファンどうしで話す場合は、同じコードを共有している可能性が高いので、コミュニケーションは成立しやすい。「話し手」と「聞き手」が同じ決まり(アニメ用語・または同じアニメを観て、そのキャラを知っているという前提)を共有している(同一のコードを参照している)ので、「話し手」「聞き手」が成立する。
 逆に、全くアニメを知らない人がその会話に加わろうとしても、その「コード」が分からないため(同じアニメを観ていない。そのキャラを知らない。基本的なアニメ用語を知らない)、「話し手」「聞き手」の関係は、成立しづらい。

 しかし、これはまさに美術で行われていることである。先に、伝達の意思がない作品として、デュシャン、ウォーホルを挙げたが、これをコードという言葉に置き換えれば、「コードが不明な作品」となる。美術業界にも、アニメ業界と同じく「暗黙の了解」はある。すなわち、「コード」はある。

 例えば、宗教画で、キリストの周りを飛んでいる鳥は、たまたまそこを通りかかったハトの群れではなく、神とイエスを結ぶ「聖霊」の象徴である。「何故、鳥がいっぱい飛んでるんだろうか、描かれている人の誰かが餌を撒いてるのか」とは、ある程度宗教画のコードを知っている人であれば、絶対思わない。
これは、キリスト教の宗教画を見る、最低限の決まり、つまり、鑑賞者が参照する同一のコードがそこに存在するからである。

 ただし、ウォーホルが壊した「コード」とは、この種のコードではない。つまり、キリスト教の宗教画を観る時に必要な、同一のコードを破壊したという類のものではない。ウォーホルが行なった行為、それは「どんな絵画にも、何かしらのコードはある」 という、大前提を壊したのである。
例えば、宗教画に詳しくない人も、その「コード」を学習すれば、その絵画を理解することはできるようになる。しかし、ウォーホルの絵画には、そもそも「コード」が「存在しない」ので、どんなに学習しても、読み取れない。


さらに巧妙なのは、ウォーホルの作品は「キャンバス」に描かれ、「美術館(もしくはギャラリー)」に展示してあるということである。これは、美術作品を発表する上で、最も古典的な手法である。
印象派も、ピカソも、ポロックも、この同じ方法で展示してきた。 つまり、パッケージングとしては、明らかに「芸術」の古典的様相を保っているのである。
そうすると、何が起きるか。すなわち、鑑賞者は、「普通の展覧会」だと思って、足を運ぶ。それも、ある程度、その時代の美術の潮流に通じている人ならば、たくさんのコードを知っている。
それは、美術を観る上でのコード、美術史の知識や、美術の潮流に対する知識とも言い換えられるだろう。 



 例えば、キャンバスに荒々しい筆致で、ひとつの円が描かれていただけの作品が展示されていたとしても、その美術に通じている鑑賞者は、
「これは、ミニマリズムの伝統を受けながら、抽象表現主義的技法を取り入れている。そして、この円は、東洋的な宗教、例えば禅に対する関心を表している。だから、この絵はミニマリズムと抽象表現主義の間に横たわる、東洋的神秘主義という共通項を、示唆したものだ。う~む、実に興味深い」
などと、美術のコードを参照しつつ、理解できる。


 そして、ウォーホルは、展示形式としては、美術の古典的なものに則っている。そして、鑑賞者が美術に精通している場合は、様々な美術的コードを用意して、「今回はどんなコードで読み取ろうか」と考えながら美術館に足を運ぶだろう。
 しかし、コードを準備してきた鑑賞者は、行き止まり(デッドエンド)に直面する。
 行き止まりをコードという言葉を使って説明すれば、「コードがない」ということである。  「コードを知らない」ではない。「新しいコードだ」でもない。「知らないコードだから学習しなければならない」ということで解決するわけではない。

なぜなら、「コード自体がない絵画」を、コードを使って読み解こうとしても、当たり前だが、不可能だからである。ウォーホルの絵画は、別の手段で読み解かねばならない。
つまり、発想の転換が必要になる。それは、「コードのない絵画」の発見にほかならない。
 

では、ここで、再び、『文化記号論』から引用したい。


「詩人は日常的なことばの「決まり」をしばしば逸脱する形で表現を行なう。日常を超える新しい意味の創造のために、日常のことばの枠を破ることが必要だからである。したがって、読者が日常のことばの枠の中にとどまっている限りは、十分に意味が読みとれないということになる」[x]

 「読者が日常の枠の中にとどまっている限りは、十分に意味が読みとれない」とは、現代美術に起きている現象を(詩と美術というジャンルは違うにせよ)、的確に表している。
よく見受けられる現象はある。ここでは、展覧会場は、日常とかけ離れた「異空間」となる。



 しかし、それはむしろ問題ではない。たしかに、ウォーホルの絵画は、「日常的なことばの枠」では、捉えきれないだろう。では、それが、「決まり」を破っているからなのか。たしかに、先に述べたように「シニフィアンには必ずシニフィエがある」という「決まり」はやぶっている。
しかし、破り方はそれだけに留まらない。その「決まり」の破り方が、かなり複雑で、捉えにくいものであることを、これから検証したい。 



 例に挙げると、フランク・ステラなどのオブジェは、箱が壁に設置されているだけのようにも見えるので、理解が難しい場合がある。日常的な「決まり」からは逸脱しているし、20世紀初頭までのピカソなどに代表される美術的な「決まり」からも逸脱している。
つまり、現代美術の文法を知らないと、理解不可能な可能性が高い。しかし、これがミニマルアートを土台にした、ある種の抽象オブジェだと、文法を知った上で、その歴史をきちんと学習し、再度、その作品を観ると結構、感動する人の数は増えるだろう。 



 しかし、ウォーホルはそうではない。現代美術の文法を知ったからといって、感動を呼ぶものではない。さらに、伝統的な美術の文脈からも逸脱している。

美術の文法として、日用品をモチーフとして扱うのは、明らかな「逸脱」である。しかし、これは「分かりやすい」逸脱のタイプである。「リーゼントでシンナー吸っていれば不良」というような、安易な社会規範からの逸脱と同じようなものに過ぎない。 



 ただ、複雑なのは、ウォーホルの逸脱の仕方は、「三重に逸脱している」ことである。

一つ目は、「美術の歴史からの逸脱」。これは分かりやすい。
そして、二つ目は、「一般大衆からの逸脱」である。キャンベルスープを描いた時点で、ウォーホルは一般大衆と、関係を持たざるを得ない。(アニメキャラクターを描いた村上隆が、コミケなどのアニメオタク文化と関係を持たざるを得ないのと同様に。そして、村上がオタクからバッシングなどの「反応」を受けたのと同様に) 一般大衆も、「なぜ、これがキャンバスに描かれると芸術なのか」 という素朴な疑問を抱く。
つまり、一般大衆の「常識」とも逸脱してしまっている。
最後に、三つ目、これは先ほどの繰り返しになるが「絵画にコードがない」という、大きな「表現の基本からの逸脱」をしている。
これは美術業界のみならず、あらゆる「表現に関わる業界」に対する逸脱である。 

 このように、「詩人のことば」が、一般大衆には分かりづらく、その原因は常識的な文法やコードを無視しているからだ、という「芸術家の逸脱」。
それと、「ウォーホルの逸脱」の仕方は、似ているようだが、複雑性や構造が違う。そして逸脱の対象も違う。そして、どの逸脱の仕方も重要である。


一つ目(美術の歴史からの逸脱)と二つ目(一般大衆からの逸脱)は、「ポップアート」と命名され、認知されることで、一応、美術界からも一般大衆からも、逸脱をまぬがれる形にはなった。(もちろん、これにも解決していない問題はある)。
しかし、さらに、三つ目の逸脱(「コード」が表現の中に存在しないこと)。これはどうであろう。これは、逸脱を、未だにまぬがれていない。そして、永遠に逸脱をまぬがれる可能性はない。



 ウォーホルは「謎の存在」だと言われるが、それは、この三重の逸脱に起因する。そして、繰り返しになるが、三つ目の逸脱が、その「謎」に於いては、最も重要である。

 一つ目と、二つ目(美術界と大衆社会、両方からの逸脱)が、あまりに明白で分かりやすいので、そこからウォーホルを捉えようとする向きも多く見られるが(別に私はそれを否定するわけではない)、それは「謎」の本質とは、関係しているようで、実は無関係であることを、ここで主張せねばならない。





「謎」の本質は、「コードの不在」である。


そして、この謎は、美術界ならず、あらゆる人々を引き付ける謎であるのも、また自明である。ウォーホルのアトリエであったファクトリーに、美術関係者ならずとも、多様な人々がウォーホルに吸い寄せられるように来ていたように、ウォーホルは多くの美術関係者「ではない」人からも、「謎」として捉えられた。

 なぜだろうか。それは、絵画でなくても、世の中に「コード」は無限に存在し、当たり前のように、人間は、それを読み取って暮らしているからである。
だからこそ、「脱コード性」を持った存在は、あらゆる者に対して「謎」となり得る。 

 ウォーホルに関する著作に関しては、決して絵画だけでなく、ウォーホルの「言葉」に焦点を当てたものも、多く出版されている[xi]。それも一つの例である。

あらゆる者から「謎めいた」印象を与える人物。それは、三重の複雑な逸脱、とりわけ表現からの逸脱、つまり、コードからの逸脱に起因することにほかならない。


では、もう一度、整理しよう。

 コミュニケーションに必要なこととは、まず、「伝達」と「表現」。表現は、正確な「記号」(「記号」=「記号内容(シニフィエ)」+「記号表現(シニフィアン)」)によって、初めて成り立つ。
それを補足するものとして、「話し手」と「聞き手」の背景となる「文法」。
そして、記号を受け取る際に、「話し手」と「聞き手」が、同じ「コード」を参照していること。
これらが成り立って、初めてコミュニケーションが可能になる。言葉にすると複雑なようだが、実際に我々は、これら全ての条件を無意識に満たして、コミュニケーションを日常生活で行なっている。 



「日常的なコミュニケーションは常に「近似的」なものであり、日常的な場合であるからこそ、近似的な一致で一応すんでいるわけである」[xii] 
 
 つまり、コミュニケーションは、近い者どうし(ex.友達、家族など)が行なうほうが、文法を分かり合い、同じコードを参照しやすいため、より成功する確率が高くなる。
 しかし、ウォーホルにおいては、これは違うのではないか。ウォーホルはキャンベルスープを描く。これは、大衆と「近似的」と言える。少なくとも、抽象画よりは近似的だろう。しかし、それは、「一見」近似的に感じるだけである。
 ウォーホルの絵画においては、近似的だからといって、作品と鑑賞者の間で、距離が縮まることはない。むしろ、近似性ゆえに、距離が遠のくのではないか。 


 理由を述べよう。ウォーホルが扱うモチーフは、シニフェイアンとしては、スーパーマーケットやメディアなどで見慣れたものである。また、「文法」の問題も、キャンベルスープは、「見慣れたスープ缶」なので特殊な背景など存在しない。スープ缶はスープ缶である。特殊な背景、例えば、歴史的な価値があったり、入手困難ゆえに所持していることである種のステータスがあるものでもない。
 誰もが知っている「あの」スープ缶である。


 ここで重要なのは、「あの~」と言える存在とは、そこに背景がない、もしくは「誰もが知っている背景があるが、いちいち言及するまでもない」ものに限られるということである。
 そして、ウォーホルは「あの~」と呼べるものしか、モチーフとして扱わない。(ex.「あの」マリリン、「あの」エルヴィス、あの「事件」)


 では、<キャンベルスープ>に於ける、「コード」の問題を考えてみよう。キャンベルスープについて、鑑賞者と作者、お互いが参照すべき、暗黙の了解。無論、作者も、鑑賞者も、お互いキャンベルスープ自体は、「知っている」。しかし、それが何だと言うのだ。ウォーホルはキャンバスにそれを描いた。鑑賞者はそれを観た。お互いの接点はここで終了してしまう。
 つまり、ウォーホルと鑑賞者の間をつなぐ、コードがそこで途切れる。

例えば、キャンベルスープが、とてもロマンティックな色彩やタッチで描かれていたり、ノーマン・ロックウェルが描くアメリカの日常のように「古き良きアメリカ」をノスタルジックに表現していたりしていたら、そこに新たな「コード」を見出せる。

 鑑賞者は、「こうやって、キャンベルスープを描くかあ。こういう描き方されると、明日から食べるキャンベルスープの観方が変わってしまうなあ」と、描かれたモチーフに対して、これまでとは別の視点を提供され、それについての感想を述べられる。新たなコードで作者と鑑賞者は結ばれる。
これが、通常の絵画を通しての、作者と鑑賞者の関係であるとすると、ウォーホルの場合は、輪郭を正確に、色も変えず、スーパーマーケットで見るイメージそのままで描いているゆえ、鑑賞者は無言にならざるを得ない。
つまり、鑑賞者は何も発見しない。キャンベルスープに対する感情も「変化」しない。なぜなら、(繰り返しになるが)鑑賞者と作者を繋ぐ新しいコードが、無いからである。鑑賞者の内面、身体的変化はコードを通してしか発生しない。それほど、コードは重要なものである。 



 ここで、<キャンベルスープ>に於ける、「記号」「文法」の概念に逆戻りしてみる。
記号としてはどうか。ただのシニフィアンがそこに存在するだけである。共通の「コード」がなければ、シニフィエを読み取る通路が与えられないのである。

文法としてはどうか。ここがトリックだと考える。「文法」はある。広義の文法ではあるが(ここでは狭義の文法とは、現代美術の文法を指すとする)、それがスーパーマーケットで売られているということ、観たこともあるということ、食べたことすらあるということ、宣伝でよく見かけるということ。
キャンベルスープに関する情報は有り余るほどある。その意味で、非常に「近似的」なものである。(「あの」キャンベルスープと呼べる。)



この意味で、文法はある。しかし、それが意味を持たない。「知っている」からである。「よくよく知っている」からである。普通、「よくよく知っている」ものに関しては、「それ以上の情報」が欲しくなる。「知らない情報」が無くては、何も新しく得るものが無い。
つまり、よく知っている文法(背景)は、もう「知っている」ので、新たな「発見」が欲しい。これが普通の考え方である。



 しかし、ウォーホルは、「それ以上の情報」を与えない。いわば、「そのまま」の情報しか与えない。




では、これを文法的に解釈するとどうなるか。それは、文法が「ない」ということを意味する。なぜなら、文法とは、必要とされて初めて「文法」となり得るからである。全く必要とされない、参照されない「文法」は、「文法」ではない。活用されて初めて文法となる。
この観点からいくと、<キャンベルスープ>という絵画に文法はない。よく知っている、近似的なものであるにも関わらず、だ。
いや、言い換えれば、よく知っている、近似的なものであるゆえだ。 そして、参照すべき文法がないと分かった鑑賞者は、同時に気付く。この<キャンベルスープ>という絵画は、「何が言いたいのか、理解不可能だ」と。
それこそが、<キャンベルスープ>の放つメッセージである。 



 このように、ウォーホルの絵画は、モチーフが日常生活に近似的であるにも関わらず、いや、日常生活に近似的であるがゆえに、コミュニケーションに必要な条件、「記号、文法、コード」この三つとも、全て満たしていない。

よって、ウォーホルの絵画とコミュニケーションすることは、不可能である。


これまで見てきたように、ウォーホルの絵画は理解ができない。何も意味していないからである。<キャンベルスープ>は、結局、何も指し示すものを持っていない。鑑賞者との繋がりであるコードは、永遠に断たれたままである。
もうお分かりのように、ウォーホルの絵画は、意味のネットワークから逃れる、もしくは、隠れる条件、「何も指し示さないこと」をクリアしているのである。
コードを持たず、文法も持たず、記号としての成立条件であるシニフィアンとシニフィエの片方、シニフィアンしか持っていない。
 このように、ウォーホルの絵画は、「何も指し示さない絵画」である。


[i] 池上嘉彦 山中桂一 唐須教光 (1994) 『文化記号論 ことばのコードと文化のコード』 講談社p.13
[ii] 同上 p.14
[iii] 同上 p.14
[iv] 同上 p.14
[v] 同上 p.15
[vi] 同上 p.15
[vii] 同上 p.16
[viii] 同上 p.16
[ix] 同上 p.16
[x] 同上 p.17
[xi] Andy WarholMike Wrenn (1991), Andy Warhol: In His Own Words (In their own words) ,Omnibus Pr. などがその例として挙げられる
[xii]池上嘉彦 山中桂一 唐須教光 同上 p.17


© Tatsuyuki Itagaki

アンディ・ウォーホル -何も指し示さない絵画- (2010) 〈第三章 (前半)〉


〈第三章〉
何も指し示さない絵画 (前半)

ここまで、ウォーホルの絵画には、「比較」という概念を遠ざける作用があるゆえ、「関係性の排除」が成り立っており、「意味のネットワークから逃れ、隠れること」を成し遂げている、ということを検証してきた。
では、これまでの考察を踏まえた上で、「意味のネットワーク(網)に絡め取られない位置とは、どのような位置か?」ということを考察し、ウォーホルがどのようにしてその位置にいるのかについて検証を重ねていきたい。

もう一度、構造主義の基本的立場とは何かを確認すると、指し示すもの、指し示されるもの、また、それらが作り出す大量の差異によって、世界は構築されているということであった。
ウォーホルの作品が、それらのネットワークから、外に出ていること。または、ネットワークの内側にいながら、その網にひっかかっていないこと。それをさらに詳しく立証していく。 



 構造主義の基本的立場で言うと、このようなことは可能ではない。何か言語でなくとも、メッセージを発した瞬間(作品を制作した瞬間)に、その意味するものが表れ、また、それが意味しないものも同時に表れ、結局ネットワークに絡め取られるからである。

では、それでも、ネットワークから逃れることが可能な条件とは?

 ①何も指し示さないこと。
 ②何にも指し示されないこと。


は不可能である。例えばウォーホルが意味不明の芸術作品を作っても、「これは芸術だ」と誰かが言った瞬間に、その作品は意味のネットワークに絡め取られる。
はどうであろう。ウォーホルが、もしをクリアしているとすれば、ウォーホルは、意味と差異のネットワークから、解き放たれていることが立証される。
しかし、それは慎重に検討しなければならない。

つまり、この問いはこう言い換えられる。「何も指し示さない絵画」とは可能なのであろうか、と。それを、これから検討していきたい。

 ここから、構造主義の延長線上にある記号論の基礎的述語を援用する。なぜなら、そのアプローチの仕方が、さらにウォーホルを読み解く上で相応しいと考えるからだ。
 記号論の立場では、ウォーホルを「歴史的」に意味づけるのではなく、絵画の表面で「今」起きていることにこだわることができる。
 「もしアンディ・ウォーホルのすべてを知りたいのならば、私の絵と映画と私の表面だけを見てくれれば、そこに私はいます。裏側には何もありません」というウォーホルの有名な言葉は、実は、「私は記号論によって、読み解かれる存在です。実存は関係ありません」と翻訳できるのではないか。



では、記号論と照らし合わせて考えてみる。ここからは、しばらく、記号論の基本的な術語の定義について、辞典的に分かり易くまとめられた、『文化記号論』(池上嘉彦 他1994 講談社)における、それぞれの記号論の術語の定義を使用する。そして、それを前提とした上で、ウォーホルをその術語から検証していく。
まず、「コミュニケーション」は以下のように定義づけられている。

「我々の手許に或る情報があり、それを離れている他人に届けたいという欲望を前提とする。その情報が、そっくりそのまま相手のところに届けば、コミュニケーションは成立したことになる」[i]

 また、「表現」は二通りに分類される

「表現は二つの性質を備えていなかればならない。一つは、情報の内容を表していること。もう一つは、相手によって知覚されうることである」[ii]

 つまり、まず、表現者は「内容」を「表す」。内容を抱え込んでいてもだめで、それを、表に出さなくてはならない。しかも、それが、相手にとって知覚されうるやり方で、表されなければならない。
 相手が気付かなければならないし、相手がそれを感じ取らなければならない。

そして、「情報の内容を表す」ことと、「相手にとって知覚されうること」が、表現に不可欠だとした上で、これに必要なものを、端的に言って『記号』だと言う。[iii]

さらに、記号を二つに分類する[iv]

1.情報の内容を表していること=記号の内容的側面=記号内容(『シニフィエ』)
2.相手によって知覚されうること=記号の表現的側面=記号表現(『シニフィアン』)
 
そして、次に『文法』というキーワードが出てくる。「文法とは、ある一つの言語で、語と語をどのように結びつけて文を作るか、ということよりも、社会習慣として決まっているもの」[v]、と定義づけられる。
そして、「言語による表現」の定義は「伝達したいと思う内容に見合う適当な語を選び、それを「文法」の規定に従うような形で結合して文をつくる」[vi]ということとなる。




ここで、また別の条件がある。「表現」についての条件だ。[vii] 例えば、独り言は「表現」なのか、という問題がある。また、誰かに足を踏まれて、「痛い!」と言うのは「表現」なのであろうか。
つまり、独り言を表現として捉えるならば、「表現」は必ずしも「伝達」を前提としているとは限らないということになる。「伝達」を前提としない「表現」も明らかに存在する。
 しかし、「伝達」は「表現」を前提とする。何か「表現」がなければ、それが誰かに「伝わる」可能性はない。何も発しなければ、表現は存在し得ない。[viii]
 

ここまで、記号論の術語について『文化記号論』から引用、参照した。では、ウォーホルをこれまで挙げた記号論の術語を使用して、考察していく。




美術作品では、基本的には「表現」は「伝達」を前提としている。つまり、基本的には「独り言」は美術作品ではない。「何か」を表現するために作品があり、それが理解されて初めて「作品」として成り立つ。


しかし、その根底を崩したのは、私が考えるに、ウォーホル、そして時代を遡ればデュシャンの存在が非常に大きい。


普通、鑑賞者は、何かしら「伝達」されるものがあると思って、作品(表現)を観る。しかし、何も「伝達」されない。


デュシャンの便器(作品タイトル「泉」)を観て、鑑賞者が怒った理由は、それが、レディ・メイドであるから、とか、展覧会場に相応しくないからとか、下品であるからとか、ではないと私は考える。


鑑賞者は(正確には展覧会の主催者は)、「表現」されるなら「伝達」もあるだろうと期待して作品を見た。(当時としては当たり前である)
しかし、「何も伝達」されなかった。
そして、それは絵が下手で何が描いてあるか分からない(技術的稚拙さ)でもなく、苦労して創ったが運搬の途中で破損してしまった(ノイズの混入)という理由でもなく、デュシャンが最初から、「表現」のみで「伝達」の意図がまるっきりないことに、怒りを感じたのではないか。
作品は破損どころか、男性用便器をそのまま横にして展示しただけなので、その意味では、完璧なクオリティである。無論、技術的に稚拙というわけでもない。(何も手を加えてないのだから)


つまり、ある種の堂々とした作品があり、鑑賞者に「これは見る価値がある」と思わせる。しかし、全く「何もその意味内容が分からない」。


こう言い換えられる。シニフィアンとしては、完璧である。 しかし、シニフィエが、さっぱり分からない。無論、便器というシニフィエは分かる。分かりすぎるほど、分かる。
しかし、「表現」されているものの「内容」(「便器」ということではなく、「芸術的内容」)が分からない。つまり、芸術的な文脈におけるシニフィエの不在に対する怒りである。

 私が考えるに、ウォーホルもこのような同じトリックを使っている。<キャンベルスープ>を例に取る。シニフィアンとしては、完璧である。表現としては、キャンベルスープが描いてあると、すぐさま感知できる。しかしである。そのキャンベルスープが何を「伝達」したいのか。それが分からない。

明らかに堂々と「表現」されているのに、その意味内容が分からない。すなわち、シニフェエ(記号内容)がさっぱり見当たらない。 鑑賞者は困惑する。




繰り返すようだが、私の考えでは、ウォーホルの<キャンベルスープ>のシニフィエは、「大量生産社会の賛美」でも「キャンベルスープはおいしい」でもない。「複製技術の時代の到来の表現」でもない(ただ、そのような解釈を否定するつもりはない)。
ウォーホルは「何も伝達していない」のではないか。ウォーホルの絵からシニフィエを探し出すのは、不可能なのではないか。
なぜなら、その作品が、鑑賞者に「伝達」したいものなど、初めから無いからだ。無いものに無理に意味づけしようとしても、それは不可能である。

 これに関して、ウォーホルが率直に言っているのを、再び、想起しなければならない。

「もしアンディ・ウォーホルのすべてを知りたいのならば、私の絵と映画と私の表面だけを見てくれれば、そこに私はいます。裏側には何もありません」この言葉は、あまりにシンプルなので、額面通りに受け取れないことも確かである。


しかし、純粋にこの言葉を、受け取ることができるのではないか。ウォーホル得意の「はぐらかし」ではなく、単に正直に「答え」を言っていると捉えることはできないだろうか。
ウォーホルが、自分の絵画に対する、正しい鑑賞の仕方を、率直に本人が説明していると、考えられないだろうか。
ウォーホルは、「僕の作品を自由に観て、それぞれ、ひとりひとりのそれぞれの意味を見出してくれ」 と言っているのではない。「表面だけを見ろ」とシンプルに言っているのみだ。


たしかに紛らわしい。「表面だけを見ろ」ということは、「表面から、何か意味を読み取れ」という意味に誤読される可能性はある。しかし、ウォーホルは「見ろ」と言っている。「意味を読み取れ」とは言っていない。
つまり、ウォーホルの発言はこう解釈すべきではないだろうか。「この作品は、単にシニフィアンです。シニフィエは存在しません」と。
しかし、ウォーホルが明確に「この作品(シニフェイアン)の、意味(シニフィエ)を知りたいと思っても、絵の表面(シニフィアン)しかありません。私の作品にシニフィエがあると想定するのは止めて下さい」というメッセージを、シニフィエを探そうとする鑑賞者に対して発しても、誤解を続ける鑑賞者は「いや、どこかにシニフィエがあるはずだ」と詮索する。
ウォーホルの発言は、シニフィエを隠すための、はぐらかし、もしくは、意味深長な言葉を使って「煙に巻いている」だけではないかと、さらに躍起になり探し回る。




しかし、これには、ウォーホル自身が仕掛けたトリックという側面もある。
「必ず、記号には、シニフィアンとシニフィエがある」という、鑑賞者の思い込みに対する、素朴な挑戦状であることを、もしかすると、ウォーホル自身、分かっていたのかもしれない。そして、シニフィアンだけが存在する作品というデュシャン以降の、非常に先鋭的な鑑賞者に対する挑戦を、ウォーホルは正統に受け継ごうとしていたのかもしれない。
そして、デュシャンが「ダダイズム」(破壊主義)と呼ばれたのに呼応するように、ウォーホルは、自身のスタイルを「ポップアート」と呼んだ。

このように、「ダダイズム」と「ポップアート」は、共通して、シニフィアンだけが自立して存在する作品を創ろうと模索していたのではないだろうか。
ウォーホルがデュシャンの姿勢を継承しようとしていた、というのは私の憶測に過ぎないが、ウォーホルがシニフィアンのみで独立し得る作品を創ろうとしていたのは、先の発言からも、確実なのではなかろうか。


〈第三章 (後半)へ続く...〉

© Tatsuyuki Itagaki

アンディ・ウォーホル -何も指し示さない絵画- (2010) 〈第二章〉


〈第二章〉
ウォーホルの絵画内に於ける、「比較不可能性」と「関係性の排除」

では、先ほど触れてこなかった、「単一のアイコンしか使用しない」ということについて考察していこう。
ハミルトンの特徴「複数のアイコンを使用する」
ウォーホルの特徴「単一のアイコンしか使用しない」

複数と単一、この言葉からは、モチーフどうしの「関係性」というキーワードが浮かんでくる。

 ハミルトンの作品、<何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力的にしているのか>の特徴として以下のようなことが挙げられる。様々な複数のコラージュどうしが、意味的に響き合う。つまり、お互いの関係性の上で成り立つ空間。お互いが「意味し合い」「意味され合う」。
では、ウォーホルの絵画内でのモチーフどうしの関係は、どうであろう。<キャンベルスープ>においては、余白が白く均等に塗りつぶされ、余白の存在感が消されていることから図と地の関係が曖昧なであり、また、一枚のキャンバスに一つのキャンベルスープしか描かれていないことから、関係性というキーワードは浮かんでこない。むしろ、恣意的にキャンバス内の関係性は排除されている。
ここで、「関係性の排除」という新たなキーワードが浮かんでくる。一見、モチーフに対して「何も手を加えない」ように見えるウォーホルだが、画面内の「関係性の排除」に対しては、非常に積極的に、緻密に行なっている。

ただ、単一のモチーフが描かれた絵画であれば、関係性の排除は、容易なことかもしれない。また、関係性がないことは、自明なことかもしれない。しかし、ウォーホルは単一のモチーフを扱いながらも、シルクスクリーンで、画面上に、そのモチーフを複数、並べることがよくある。<エルヴィス>がその例だ。
<エルヴィス>は、全く同じ型をシルクスクリーンでキャンバスに刷るという手法で制作されているが、何度もキャンバス上に手作業で刷られているので、インクの量の違いや、手作業ゆえに刷る力加減が毎回違うことによって、微妙な差異を持ったエルヴィスが刷られることになる。
これは、キャンバス上に複数のエルヴィスが描かれていると捉えることもできる。では、画面上の複数のエルヴィスどうしは、どう関係し合うのであろうか。 同じ画面上に存在する限りは、お互い関係性がないわけがない、と考えるところだ。ところが、関係性は知覚されない。鑑賞者は、「同じ柄のプリントが複数ある」ということは認識するであろう。しかし、鑑賞者は、エルヴィスの微妙な差異を感知しない。もしくは、気付いても、そこに特に着目しない。なぜか。ウォーホルの絵画は、関係性を感知できない仕組みになっているからである。

私は、その仕組みは、画面内にいるエルヴィスどうしを、鑑賞者が「比較」できないように、あらかじめウォーホルが仕組んでいるからではないかと考える。モチーフどうしの比較ができないと、その関係性も感知できない。 

 では、「比較できない状態」とはどういうものか。まず、はじめに、比較ができ、その関係性も感知できる場面を想定してみる。人間は、「何が」目の前にあると、比較し、その関係性に着目するのか。

 まず、類似性が必要であると考えられる。似ているものは、目につく。例えば、一般的な会話として、「あの子、あの有名人にそっくりじゃない?」という場面を想定してみよう。言われたほうは、ついついじっと見る。 そして「比較」する。(ex.「ああ、目元が似ているかも」「いや、全然似てないよ」)
このような場合、類似性がまずあり、そこから、異なる点、つまり、相違点が目につく。比較することとは、「類似性を持った複数のものから、その相違点を見つけること」であると言える。そして、この場合、総合的に認識し、最終的に「似ている」「似ていない」の判断がある。

 では、ウォーホルの<エルヴィス>ではどうか。同じ画面上に、複数のエルヴィスが刷られている。同じ原型のエルヴィスを、同じシルクスクリーンという技法で刷ったもの。
まず、そこで感知されるのは、「同じモチーフ」「同じ技法」という「類似性」である。しかし、それぞれのエルヴィスが、微妙に異なっているという「相違点」が感知されない。なぜか。 

 ここで、ウォーホルがシルクスクリーンという「機械的」な手法で、作品を創っていることが重要になる。機械は、たくさんの製品を作る。
もちろん、機械でも、全く同じものを作り続けることは難しい。例えば、機械が同じ洗面器を大量に作っても、些細なバグにより、洗面器の底の面積が、ほんの僅かに小さなものが生産される場合がある。
しかし、その面積の違いが「製品」としての許容範囲内であったら、それは「同じ製品」であり、「同一の洗面器」として売り出される。消費者は、それらの相違点を気にしないからである。
消費者は、「どの洗面器の底の面積が広いか」を注視するのではなく、「それが洗面器として機能するかどうか」で判断する。つまり、機械が大量のものを作り、それが「製品」として機能する許容範囲内で少しだけ違っていても気にされない。製品として機能する限りは、全て「同一の」製品として感知される。

 もう一度、先ほどの場面に戻って考えてみよう。比較という概念から発せられる言葉、 「あの子、あの有名人に似てない?」 
それは、その有名人が、機械で大量生産された製品ではないから、初めて発せられる。
比較の裏には、絶対的な違い、根源的な相違(その有名人と全く同じDNAを持った人はいない)が絶対的前提としてある。機械で作られたものでないから、「比較」という発想が浮かぶのだ。 

では、ウォーホルの作品、<キャンベルスープ>を見てみる。それぞれ、缶に書いてあるスープ名は、「TOMATO」や「VEGETABLE」など、「相違」する。しかし、先ほど述べたような、根源的な差異はない。どれも、キャンベルスープである。
繰り返すが、人間が何かを比較するとき、そこに根源的な違いがあり(=全く同じではない)、それにも関わらず、そこにある種の類似性があると、人間は比較する。しかし、ウォーホルの絵画の内部で起きていることは、一言で言えば、「比較不可能」という状態だ。まず、その理由は、根源的な差異がそこには見当たらないからだ。種類は違ったとしても、全て同じキャンベルスープである。
では、さらに比較について考えよう。先ほど、比較できる条件を提示した。比較できない条件は、その逆になる。

 根源的相違点が「ない」こと。
 感知され得る、類似性が「ない」こと。
 類似性の次に知覚される、相違点が「ない」こと。 

 は先に述べた通りだ。キャンベルスープは種類が違えど、同じキャンベルスープであり、エルヴィスは多少のインクのかすれがあるものがあっても同じエルヴィスだ。
がポイントだ。キャンベルスープは類似性「だらけ」だ。エルヴィスも、僅かにかすれた部分が存在するだけで、類似性「だらけ」だ。
つまり、先ほどの、有名人に似ている人物を一人、大勢の人の群れから発見し、その人物と有名人との類似性に注目した場面と、状況が全く逆である。「あのキャンベルスープと、このキャンベルスープ似てない?」と、100個のキャンベルスープを眼の前にして、言う人は誰も居ない。似ていることが、あまりにも自明だからだ。当たり前のことを言う人はいない。そこが盲点だ。つまり、似すぎていて、似ていると言う必要もないし、考えることすらない。 

 つまり、比較の条件=感知される得る類似性が「ない」こと。その条件はさらに二通りに分けられるということになる。 

 違いすぎいて、類似点が発見できない場合
 類似性という発想が奪われる場合 

 ウォーホルの絵画上では、明らかに後者の現象が起きている。類似性という発想が奪われるという現象である。

また少し違った例を挙げる。話し手が「あの車は赤だ」と言う。しかし、赤にも何種類もある。聞き手は、「あれは赤というよりオレンジだね」と応える。しかし、話し手、聞き手、両者の隣に大量の青い車の群れがあったらどうだろう。そして、両者の目の前に、多少の違いがあったとしても「赤っぽい」車の群れがあったらどうだろう。 話し手は、「あの車は赤だね」と言う。聞き手は「そうだね。赤だね」と応えるだろう。
実際は、その車が赤というよりもオレンジがかっていたとしても、隣に青い車の群れがあると、ささいな差異が感知できなくなっているのである。

そして、ウォーホルが取り上げるのは、スターや、誰もが知っている製品だ。つまり、青い車の群れの隣にある、赤っぽい車だ。
話し手が「あのウォーホルの絵に描かれている人はエルヴィスだね」と言ったとする。聞き手は、考える間もなく瞬時に「そうだ」と応える。多くの群集(青い車)の中で際立った存在であるエルヴィス(赤っぽい車)は、たとえエルヴィスが正確に描かれていなくても、同じ、エルヴィスというスターのイメージを共有されているため、エルヴィスと認知される。
このような、誤認の可能性が完璧に無い有名人しか、ウォーホルはモチーフとして取り扱わない。ピストルを構えた、有名なエルヴィスのポーズを観て、鑑賞者は誰もが瞬時にエルヴィスだと知覚する。そして、インクがかすれていようが、シルクスクリーンの刷りが多少ずれていようが、刷られている人物は、全てエルヴィスである。
比較という概念は、完全に消えている。


 では、<エルヴィス>について、先ほどの「比較できない条件」を当てはめてみる。 

 根源的に同じだということ。
 これは、疑いようもなく瞬時に知覚されることによって成し遂げられる。エルヴィスは、疑いようもなくエルヴィスとして、瞬時に知覚される。画面内にいるエルヴィスは全て根源的に同じエルヴィスに間違いないと知覚されるのである。

 類似性についての発想が奪われること 
また少し別の例を挙げれば、今度は、エルヴィスの同じポーズの写真が複数、並んでいたとする。もし、エルヴィスほど有名で無い人であった場合、「この右から2番目の写真の人は違う人ではないか」と疑念が生じる可能性がある。
しかし、エルヴィスほど、一瞬で分かる(=知っている)スターであった場合、その写真を見て、エルヴィスの写真が「たくさんある」と感知する。「たくさんある」という思考状態に落とし込むことで、複数のものがあっても、どれとどれが、似ている似ていない、という知覚は生じない。 

 相違点(違う部分)を見つける
 この条件は、②で類似性の発想が奪われている以上、そこからさらに相違点を見つけることは不可能である。まず、類似性があり、次に相違点を見つけるからである。


 このようにして、<エルヴィス>に於いても<キャンベルスープ>に於いても、画面内に複数のモチーフあっても、それを相互に比較ができない。比較するという発想自体が奪われている。
このように、ウォーホルの絵画上では、絶対に「比較」という概念が生まれない。「比較」という発想自体を、鑑賞者の側に生み出させないからだ。そして、そこには、「関係性」が欠落した世界が生まれる。



では、第三章に行く前に、第一章と第ニ章の内容をまとめておこう。
まず、ウォーホルの絵画には、「意味がない」。つまり、第一章で検証したように、ウォーホルの絵画には、指し示すものと、指し示されるものが存在しない。そして、第二章で、その根拠として「比較」をテーマに考えた。そして、ウォーホルの絵画内では「比較」という概念が存在し得ないことを検証した。「比較」が存在し得ない状態とは、物事どうしの関係性が失われた状態である。 

 具体例としては、<キャンベルスープ>では、それぞれ、ほぼ、「全く同じ」ものが「たくさん」あるゆえ、どれとどれが似ている、どれとどれは違う、という「比較」が起こらない。それは、モチーフが、根源的に同一であり、類似性が「ありすぎて指摘するまでもなく」、相違点としてのキャンベルスープの種類は文字として画面に描かれているので「指摘する意味がない」。また、ウォーホルが扱うスター(ポップアイコン)は、自明すぎるほど、ほかの大衆から「目立つ」存在であり、その結果、比較するという発想自体が生まれ得ない。

ウォーホルの絵画においては「比較」できる条件
 根源的に違う
 類似性がある(類似性を感知する)
 相違点がある(相違点を感知する)
 これら三つが、どれも当てはまらない。 

 よって、ウォーホルの絵画には、「比較」という概念を遠ざける作用があり、それゆえに、「意味のネットワークからできているこの世界」に於いて、そのネットワークから逃れ、隠れること。それを、ウォーホルは成し遂げているのである。

© Tatsuyuki Itagaki