2011/12/03

アンディ・ウォーホル -何も指し示さない絵画- (2010) 〈終わりに〉

〈終わりに〉



 哲学者ウィトゲンシュタインの「論理哲学論」の有名な一節に「語り得ぬものには、沈黙すべし」というものがある。[i]
 
 これまで、ウォーホルついて、ウォーホルの奇妙な立ち位置。ウォーホルの絵画内で何も起きていないこと。ウォーホルの絵画は何も指し示さないことを見てきた。よって、ウォーホルの絵画と、鑑賞者とのコミュニケーションは、不可能だと結論づけられる。我々は、ウォーホルの絵画については、コミュニケーションの不可能性を語ることはできても、それ以上を語ることはできない。


 しかし、最後に、このような奇妙で、不親切とも言える画家、ウォーホルに対し、なぜ、我々は興味を抱き続けているのか。そして、時には愛着を持つほどに夢中になるのか。それを、鑑賞者側の立場として述べて、終わりにしたい。
 そして、ウォーホルが、いったい、我々に何を残したのかに触れて、結語としたい。




 最後のキーワードは、「ウォーホルとデッドエンド」である。これまで見てきたように、結局のところ、ウォーホルには、「どん詰まり」感がある。もう、これ以上行けないという感覚。「これで終わりだ」という諦観。
 つまり、ウォーホルの本質に迫ろうとした時、結局行き着くのは、「これ以上続かない絵画」。もしくは、「どこにも行こうとしない絵画」というデッドエンドの感覚である。

 そして、デッドエンドの感覚が、私たちに深く内在的に、「快楽」を潜ませていることも、ここで触れなければならないだろう。「もうどこにも行けない」とは=「もうどこにも行かなくてよい」ということでもある。

 北アメリカの歴史を思い出してみよう。そこには、イギリスから渡航したピューリタンが、北アメリカ東部に流れつき、そこから、西へ西へと、開拓してきた歴史がある。アメリカン・スピリットとは、まがいもなく、この「開拓者精神」であり、果てぬ夢を抱いて、西へと向かう、ある種の「終わらない旅」であった。

 しかし、旅は終わった。開拓者は西海岸へとたどりついた。現在のアメリカ西海岸に位置する、カルフォルニアに、ある種の、楽観主義とともに、開拓が終わった後の、虚無感が漂っているのを、感じることができるように・・・。(ニューヨークと、カルフォルニアは、全くその意味で、別の精神性を持った都市である)



 先ほど、デッドエンドの二面性を提示した。

 1.「どこにも行けない」という閉塞感。
 2.「もうどこにも行かなくてもよい」という安堵感。

 これは、コインの裏返しである。美術を考える上で、このデッドエンドの概念はどのように言い表され得るだろうか。
1.「どこにも行けない」という閉塞感。これは、単純な言葉で言うと、美術の終焉を意味する。美術の終焉とは何か。それは、もう新しいスタイルが必要ない、もしくは生まれない、ということでは「ない」。美術の終焉とは、そのような美術史的なものではなく、あくまで「個人」に起因するものである。つまり、「創造力を奪われる」ということである。




具体的に説明しよう。絵画を前にした時、我々は少なくとも、ある種の刺激を受ける。刺激といってしまえば、漠然としている。もう少し限定しよう。我々は、絵画を前にして、認識をしている。では、認識とは何か?それは命名することである。命名。分節化と言ってもよいかもしれない。
我々はただ、絵画を眺めているとき、それは「眺めている」だけではなく、ひたすらに「分析」している。 これは人間の本質的行為である。視覚から入ってきた「わけの分からないもの」を、分節化し、最終的には、「言語」として、「理解」する。(これには、多くの反論があるだろう。必ずしも、認識と言語化は一致しないという意見も汲みしなければいけない)。
では、もうすこしソフトに「カテゴライズしている」と言おう。カテゴライズも、あるものを、切り分け、認識しやすくすることである。 しかし、美術において、カテゴライズとは、「創造」を意味する。なぜなら、美術作品を前にして、我々は、個人としてそれに向き合い、自身の感覚と照らし合わせて、「新しい」認識を得るからである。
つまり、もともと「無」だった認識が、「ある形」を持つ。 人は美術作品を通して、無から有を創り出す。それは、「創造」と呼ぶことができるのではないか。我々は、新たな美術作品を前にして、無から有を創り出そうとする。まるで、作品と呼応しあうように、我々もまた、創造しているのだ。




しかし、1.の「どこにも行けないという閉塞感」を生み出す作品がある。その代表がウォーホルの作品である。この状態を、「不幸なデッドエンド」状態と呼ぼう。


「不幸なデッドエンド」状態にある人々に対する作品が、自らと呼応できない作品と出会ったらどうであろう。呼びかけても、返事をしない作品。何も話しかけてくれない、無口な作品。こちらから歩み寄ろうとしても、さっとその姿が消えてしまう作品。つまり、分節化しようとしても、不可能な作品である。
そこには、人間の認識は働かない。分析もできない。つまり、「見る人間の中に何も起こらない」作品である。(美術館に行ったことのある人なら、誰しも、訳の分からない現代美術を観て、少し、腕組みをして考えて、一応、作品のタイトルだけ見て、首をひねって通り過ぎる人を、何人、いや、何百人と見てきたことだろう)。
「不幸なデッドエンド」状態にある人々は、自分と呼応しない作品を、無視する。 それは、作品もまた、その人間を無視しているからだ。ここに、人間と作品との不幸な、コミュニケーション不可能性が発生している。

 簡略に述べれば、不幸なデッドエンドとは、作品の認識不可能性=自身の創造不可能性=作品とのコミュニケーションの遮断、という状態である。どこにも行けない閉塞感。この閉塞感を歴史的に関係付ければ、「もう西がない」ということである。

「西へ西へ」と、「未知なるもの」を発見し、その目と足で「認識」し、自分の土地として「所有」するという行為の終わり。それは、行き場のない感情として、彷徨いつづける。(まるで、ピストルを構えるエルヴィスが、ウォーホルのキャンバス上で、亡霊のように分身し、インクの量が減るにしたがって消え去っていくように)


 これが、デッドエンドのひとつの「不幸な」かたちである。そして、とりわけウォーホルが、このような「不幸なデッドエンド」の象徴であり、また、彼らを逆なでし、不快にさせる存在であることは、言うまでもない。


 では、そのコインの裏返し、「幸福なデッドエンド」とはどのようなものか。デッドエンドが、「どこにも行かなくてよい」という安堵感になるとはどのような現象か。

それは、「分からない」ということが持つ快楽が、根底にあると言える。美術で言えば、何も感じず、認識不可能で、読解不可能であることを、「楽しむ」という、ひとつの見方をいう。これは、「不幸なデッドエンド」とは、本質的に異なる。何が異なるのか。作品ではない。観る、鑑賞者側の態度が異なることに他ならない。



作品が「分析不可能」であることを、快楽として受け止める態度。これはどういったものであろうか。どういった態度であろうか。
先ほどまで述べてきた、「不幸なデッドエンド」の当事者は、「分からない」ことを、不快に感じる、もしくは、無視する。しかし、「幸福なデッドエンド」の当事者は、「分からない」ことを、快適に感じ、むしろそこに留まろうとする。なぜか。
それは、世界の構造に対する、認識、もしくは哲学の、根本的な違いから発生する。「幸福なデッドエンド」の保持者は、世界があまりに(過度に)「認識可能」であることに気付いている。それは、この世界が意味づけという、檻に入れられた、監獄であり、我々は、その見えない檻から脱出できない、「閉じ込められた存在」であるという認識に基づく。
そして、それは、得てして無意識の認識なので、顕在化することは少ない。 しかし、潜在的に、この意味的世界を「窮屈だ」と思っている人々。 または、そう感じてしまう人々は、無意味な作品に触れたとき、そこに「意味」を見出すのではなく、逆にその「無意味さ」を鋭敏に見出す。
なぜ、鋭敏にか。それは、潜在的に、それを常に探しているからである。そして、「意味」と「無意味」の狭間に位置する、美術館という空間に足を運ぶこと、その行為そのものが、無意識的に「無意味なもの」を求めているのではないか。
「幸福なデッドエンド」の保持者は、作品を、「意味のあるもの」(理解可能なもの)と、「意味のないもの」(理解不可能なもの)を腑分けする。そして、「幸福なデッドエンド」状態の人々は、理解不可能な作品の前で、より長い時間立ち止まり、鑑賞するのだ。
それは、作品が放つ「無意味さ」の波を受け取り、そこに波長を合わすことで、普段の「意味的世界」から、一時的にしろ、解き放たれ、そこに(ハイデガー的に言えば)、己の存在の本質が現出してくる様を、感じるのである。
 
これは、「不幸なデッドエンド」状態の人々が成し遂げられなかった、創造的(クリエイティヴ)な行為を「幸福なデッドエンド」状態の人々は実現しているということか。いや、それは違う。なぜなら、「幸福なデッドエンド」状態の人々は、そこから、何も創造しないからである。
 

つまり、過度に受動的な態度を取れるという、その「現象」自体に身をおくことを自らに許せる、その時間を享受している。そこからは、何も生まれない。この「何も生まれなさ」こそが、「幸福なデッドエンド」を感じる、キーワードである。 「幸福なデッドエンド」状態の人々は、生産者であることを放棄し、単に、享受する、ある種の「空白」となる。
作品の中に、どこを探しても意味など見当たらないように、「幸福なデッドエンド」の保持者の意識のどこを探しても、積極的に認識し、分節化する態度(意味づけ)は見当たらない。
 
「幸福なデッドエンド」状態の人々は、その内なる空白を、認識するだろう。これもまた、クリエイティヴ(創造的)な態度と錯覚されるかもしれない。しかし、空白を生み出すことを、創造的とは言わない。空白を生み出す時、我々は、完全に自我の形を「放棄」し、悪く言えば、己の自我から「逃走」している。


このような、「幸福なデッドエンド」の享受者も、ウォーホルの絵に反応する。 (ただ、それには条件がある。その時、鑑賞者の中に、どれほど「空白」に対する渇望があるかどうかだ。しかし、それは、条件に過ぎない)。
おそらく、「幸福なデッドエンド」状態の人々の中で、「空白」への渇望が高まったとき、ウォーホルを無視することは不可能であろう。そして、そこに求めていた「空白」を見出し、安らぎに身をゆだねざるを得ないだろう。 
 
このように、「不幸なデッドエンド」(どこにも行けないという閉塞感を覚える人々)も、「幸福なデッドエンド」(どこにも行かなくてもよいという安堵感を覚える人々)も、両者、ともに、否定的にしろ、肯定的にしろ、ウォーホルに対して、何かを感じずにはいられない。
 

このことは、美術史が証明している。ポップアートは一つの時代の「流行りもの」ではなかった。1962年、アンディ・ウォーホルが初めて、アーティストとしてデビューした年は、美術史に刻まれている。
それは、ウォーホルが「デッドエンド」を提示したからである。 
 
 ウォーホルの作品は「不幸なデッドエンド」の人々の感情を、不快という感情であれ、常に「逆なで」し続ける。また、「幸福なデッドエンド」の人々に、「空白」を享受させる絵画として存在し続ける。(詩的な言葉で言えば、「謎」として存在し続ける)
 

 デッドエンド。それはウォーホルが発明した、「永遠に謎であることによって、永遠に忘れ去られない」という、まことに奇妙なトリックである。


[i]ウィトゲンシュタイン,L. (山元一郎訳) (2001) 『論理哲学論』 中央公論新社





〈参考文献〉

Andy Warhol (1977), The Philosophy of Andy Warhol (From A to B And Back Again) , Mariner Books
Andy Warhol and Pat Hackett, (1980), POPism The Warhol Sixties , Penguin Books
Andy WarholMike Wrenn. (1991), Andy Warhol: In His Own Words (In their own words) ,Omnibus Pr.
Klaus Honnef, (2004), Pop Art , Taschen America Llc
アーサー・C. ダントウ 他 (1997) 『アンディ・ウォーホル全版画―カタログ・レゾネ 19621987』 美術出版社
ウィトゲンシュタイン,L. (山元一郎訳) (2001) 『論理哲学論』 中央公論新社
ハイデガー,M. (関口浩訳) (2002) 『芸術作品の根源』 平凡社
バルト,R. (沢崎浩平訳) (1986) 『美術論集』 みすず書房
ピアジェ,J. (滝沢武久、佐々木明訳) (1970) 『構造主義』 白水社
ベルジー,C. (折島正司訳、解説)  (2003)  『ポスト構造主義』 岩波書店
マクシャイン,K. (1990) 『ウォーホル画集』 リブロポート
リパード,L. (宮川淳訳) (1967) 『ポップ・アート』 紀伊国屋書店
浅田彰 (1983) 『構造と力-記号論を超えて』 頸草書房
池上嘉彦 山中桂一 唐須教光 (1994) 『文化記号論 ことばのコードと文化のコード』 講談社
佐々木健一 (1985) 『作品の哲学』 東京大学出版会
佐々木健一 (1995) 『美学辞典』 東京大学出版会
西村清和 (1995) 『現代アートの哲学』 産業図書
橋爪大三郎 (1988) 『はじめての構造主義』 講談社
日向あき子 (1995) 『ポップ・マニエリスム』 冲績社
丸山圭三郎 (1981) 『ソシュールの思想』 岩波書店
丸山圭三郎 (1987) 『言葉と無意識』 岩波書店
渡邊二郎 (1998) 『芸術の哲学』 筑摩書房
DVD 『アンディ・ウォーホル ザ・コンプリート・ピクチャー』 (2004) コロムビアミュージックエンタテインメント
DVD
 『アンディ・ウォーホル スーパースター』 (2005) コロムビアミュージックエンタテインメント

© Tatsuyuki Itagaki

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