2011/12/03

アンディ・ウォーホル -何も指し示さない絵画- (2010) 〈第三章 (前半)〉


〈第三章〉
何も指し示さない絵画 (前半)

ここまで、ウォーホルの絵画には、「比較」という概念を遠ざける作用があるゆえ、「関係性の排除」が成り立っており、「意味のネットワークから逃れ、隠れること」を成し遂げている、ということを検証してきた。
では、これまでの考察を踏まえた上で、「意味のネットワーク(網)に絡め取られない位置とは、どのような位置か?」ということを考察し、ウォーホルがどのようにしてその位置にいるのかについて検証を重ねていきたい。

もう一度、構造主義の基本的立場とは何かを確認すると、指し示すもの、指し示されるもの、また、それらが作り出す大量の差異によって、世界は構築されているということであった。
ウォーホルの作品が、それらのネットワークから、外に出ていること。または、ネットワークの内側にいながら、その網にひっかかっていないこと。それをさらに詳しく立証していく。 



 構造主義の基本的立場で言うと、このようなことは可能ではない。何か言語でなくとも、メッセージを発した瞬間(作品を制作した瞬間)に、その意味するものが表れ、また、それが意味しないものも同時に表れ、結局ネットワークに絡め取られるからである。

では、それでも、ネットワークから逃れることが可能な条件とは?

 ①何も指し示さないこと。
 ②何にも指し示されないこと。


は不可能である。例えばウォーホルが意味不明の芸術作品を作っても、「これは芸術だ」と誰かが言った瞬間に、その作品は意味のネットワークに絡め取られる。
はどうであろう。ウォーホルが、もしをクリアしているとすれば、ウォーホルは、意味と差異のネットワークから、解き放たれていることが立証される。
しかし、それは慎重に検討しなければならない。

つまり、この問いはこう言い換えられる。「何も指し示さない絵画」とは可能なのであろうか、と。それを、これから検討していきたい。

 ここから、構造主義の延長線上にある記号論の基礎的述語を援用する。なぜなら、そのアプローチの仕方が、さらにウォーホルを読み解く上で相応しいと考えるからだ。
 記号論の立場では、ウォーホルを「歴史的」に意味づけるのではなく、絵画の表面で「今」起きていることにこだわることができる。
 「もしアンディ・ウォーホルのすべてを知りたいのならば、私の絵と映画と私の表面だけを見てくれれば、そこに私はいます。裏側には何もありません」というウォーホルの有名な言葉は、実は、「私は記号論によって、読み解かれる存在です。実存は関係ありません」と翻訳できるのではないか。



では、記号論と照らし合わせて考えてみる。ここからは、しばらく、記号論の基本的な術語の定義について、辞典的に分かり易くまとめられた、『文化記号論』(池上嘉彦 他1994 講談社)における、それぞれの記号論の術語の定義を使用する。そして、それを前提とした上で、ウォーホルをその術語から検証していく。
まず、「コミュニケーション」は以下のように定義づけられている。

「我々の手許に或る情報があり、それを離れている他人に届けたいという欲望を前提とする。その情報が、そっくりそのまま相手のところに届けば、コミュニケーションは成立したことになる」[i]

 また、「表現」は二通りに分類される

「表現は二つの性質を備えていなかればならない。一つは、情報の内容を表していること。もう一つは、相手によって知覚されうることである」[ii]

 つまり、まず、表現者は「内容」を「表す」。内容を抱え込んでいてもだめで、それを、表に出さなくてはならない。しかも、それが、相手にとって知覚されうるやり方で、表されなければならない。
 相手が気付かなければならないし、相手がそれを感じ取らなければならない。

そして、「情報の内容を表す」ことと、「相手にとって知覚されうること」が、表現に不可欠だとした上で、これに必要なものを、端的に言って『記号』だと言う。[iii]

さらに、記号を二つに分類する[iv]

1.情報の内容を表していること=記号の内容的側面=記号内容(『シニフィエ』)
2.相手によって知覚されうること=記号の表現的側面=記号表現(『シニフィアン』)
 
そして、次に『文法』というキーワードが出てくる。「文法とは、ある一つの言語で、語と語をどのように結びつけて文を作るか、ということよりも、社会習慣として決まっているもの」[v]、と定義づけられる。
そして、「言語による表現」の定義は「伝達したいと思う内容に見合う適当な語を選び、それを「文法」の規定に従うような形で結合して文をつくる」[vi]ということとなる。




ここで、また別の条件がある。「表現」についての条件だ。[vii] 例えば、独り言は「表現」なのか、という問題がある。また、誰かに足を踏まれて、「痛い!」と言うのは「表現」なのであろうか。
つまり、独り言を表現として捉えるならば、「表現」は必ずしも「伝達」を前提としているとは限らないということになる。「伝達」を前提としない「表現」も明らかに存在する。
 しかし、「伝達」は「表現」を前提とする。何か「表現」がなければ、それが誰かに「伝わる」可能性はない。何も発しなければ、表現は存在し得ない。[viii]
 

ここまで、記号論の術語について『文化記号論』から引用、参照した。では、ウォーホルをこれまで挙げた記号論の術語を使用して、考察していく。




美術作品では、基本的には「表現」は「伝達」を前提としている。つまり、基本的には「独り言」は美術作品ではない。「何か」を表現するために作品があり、それが理解されて初めて「作品」として成り立つ。


しかし、その根底を崩したのは、私が考えるに、ウォーホル、そして時代を遡ればデュシャンの存在が非常に大きい。


普通、鑑賞者は、何かしら「伝達」されるものがあると思って、作品(表現)を観る。しかし、何も「伝達」されない。


デュシャンの便器(作品タイトル「泉」)を観て、鑑賞者が怒った理由は、それが、レディ・メイドであるから、とか、展覧会場に相応しくないからとか、下品であるからとか、ではないと私は考える。


鑑賞者は(正確には展覧会の主催者は)、「表現」されるなら「伝達」もあるだろうと期待して作品を見た。(当時としては当たり前である)
しかし、「何も伝達」されなかった。
そして、それは絵が下手で何が描いてあるか分からない(技術的稚拙さ)でもなく、苦労して創ったが運搬の途中で破損してしまった(ノイズの混入)という理由でもなく、デュシャンが最初から、「表現」のみで「伝達」の意図がまるっきりないことに、怒りを感じたのではないか。
作品は破損どころか、男性用便器をそのまま横にして展示しただけなので、その意味では、完璧なクオリティである。無論、技術的に稚拙というわけでもない。(何も手を加えてないのだから)


つまり、ある種の堂々とした作品があり、鑑賞者に「これは見る価値がある」と思わせる。しかし、全く「何もその意味内容が分からない」。


こう言い換えられる。シニフィアンとしては、完璧である。 しかし、シニフィエが、さっぱり分からない。無論、便器というシニフィエは分かる。分かりすぎるほど、分かる。
しかし、「表現」されているものの「内容」(「便器」ということではなく、「芸術的内容」)が分からない。つまり、芸術的な文脈におけるシニフィエの不在に対する怒りである。

 私が考えるに、ウォーホルもこのような同じトリックを使っている。<キャンベルスープ>を例に取る。シニフィアンとしては、完璧である。表現としては、キャンベルスープが描いてあると、すぐさま感知できる。しかしである。そのキャンベルスープが何を「伝達」したいのか。それが分からない。

明らかに堂々と「表現」されているのに、その意味内容が分からない。すなわち、シニフェエ(記号内容)がさっぱり見当たらない。 鑑賞者は困惑する。




繰り返すようだが、私の考えでは、ウォーホルの<キャンベルスープ>のシニフィエは、「大量生産社会の賛美」でも「キャンベルスープはおいしい」でもない。「複製技術の時代の到来の表現」でもない(ただ、そのような解釈を否定するつもりはない)。
ウォーホルは「何も伝達していない」のではないか。ウォーホルの絵からシニフィエを探し出すのは、不可能なのではないか。
なぜなら、その作品が、鑑賞者に「伝達」したいものなど、初めから無いからだ。無いものに無理に意味づけしようとしても、それは不可能である。

 これに関して、ウォーホルが率直に言っているのを、再び、想起しなければならない。

「もしアンディ・ウォーホルのすべてを知りたいのならば、私の絵と映画と私の表面だけを見てくれれば、そこに私はいます。裏側には何もありません」この言葉は、あまりにシンプルなので、額面通りに受け取れないことも確かである。


しかし、純粋にこの言葉を、受け取ることができるのではないか。ウォーホル得意の「はぐらかし」ではなく、単に正直に「答え」を言っていると捉えることはできないだろうか。
ウォーホルが、自分の絵画に対する、正しい鑑賞の仕方を、率直に本人が説明していると、考えられないだろうか。
ウォーホルは、「僕の作品を自由に観て、それぞれ、ひとりひとりのそれぞれの意味を見出してくれ」 と言っているのではない。「表面だけを見ろ」とシンプルに言っているのみだ。


たしかに紛らわしい。「表面だけを見ろ」ということは、「表面から、何か意味を読み取れ」という意味に誤読される可能性はある。しかし、ウォーホルは「見ろ」と言っている。「意味を読み取れ」とは言っていない。
つまり、ウォーホルの発言はこう解釈すべきではないだろうか。「この作品は、単にシニフィアンです。シニフィエは存在しません」と。
しかし、ウォーホルが明確に「この作品(シニフェイアン)の、意味(シニフィエ)を知りたいと思っても、絵の表面(シニフィアン)しかありません。私の作品にシニフィエがあると想定するのは止めて下さい」というメッセージを、シニフィエを探そうとする鑑賞者に対して発しても、誤解を続ける鑑賞者は「いや、どこかにシニフィエがあるはずだ」と詮索する。
ウォーホルの発言は、シニフィエを隠すための、はぐらかし、もしくは、意味深長な言葉を使って「煙に巻いている」だけではないかと、さらに躍起になり探し回る。




しかし、これには、ウォーホル自身が仕掛けたトリックという側面もある。
「必ず、記号には、シニフィアンとシニフィエがある」という、鑑賞者の思い込みに対する、素朴な挑戦状であることを、もしかすると、ウォーホル自身、分かっていたのかもしれない。そして、シニフィアンだけが存在する作品というデュシャン以降の、非常に先鋭的な鑑賞者に対する挑戦を、ウォーホルは正統に受け継ごうとしていたのかもしれない。
そして、デュシャンが「ダダイズム」(破壊主義)と呼ばれたのに呼応するように、ウォーホルは、自身のスタイルを「ポップアート」と呼んだ。

このように、「ダダイズム」と「ポップアート」は、共通して、シニフィアンだけが自立して存在する作品を創ろうと模索していたのではないだろうか。
ウォーホルがデュシャンの姿勢を継承しようとしていた、というのは私の憶測に過ぎないが、ウォーホルがシニフィアンのみで独立し得る作品を創ろうとしていたのは、先の発言からも、確実なのではなかろうか。


〈第三章 (後半)へ続く...〉

© Tatsuyuki Itagaki

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