2011/12/03

アンディ・ウォーホル -何も指し示さない絵画- (2010) 〈第一章〉

〈第一章〉
「意味されず、意味しないこと」その特殊な立ち位置

まず、ウォーホルの作品に触れる前に、リチャード・ハミルトンという人物について触れたい。ポップアートはアメリカで生まれたのではなく、イギリスで生まれたからだ。
そして、ハミルトンは、ポップアートの元祖ともいうべき存在で、日用品やマスメディアからモチーフを取るという、ポップアートの基本的形式を探求し、その研究結果に忠実な作品を創っている。いわば、ポップアートという概念を、そのまま表したような人物ということができる。



それに対し、ウォーホルは、ポップアートの代表的なアーティストとして、今日でも位置づけられているが、全くハミルトンとは、異なる姿勢を持つ人物である。
無論、取り上げるモチーフに関しては、共通する部分は多い。ウォーホルもハミルトンも、マリリン・モンローをモチーフとして取り上げた作品があるし、資本主義社会の中で生み出される大量生産品を両者とも頻繁に取り上げている。しかし、根本的な姿勢が異なるのである。
つまり、ウォーホルは、単なるポップアーティストではない。ポップアートの流派の一員に数えられるとしても、ウォーホルは芸術家として非常に特異な存在である。ウォーホルはポップアートというカテゴリーを超え、芸術そのものを変えたと言っても過言ではないほど、美術史上で、大きな役割を果たしているのである。
それを検証するために、ウォーホルが属する、ポップアートという流派の典型的な人物、ハミルトンを取り上げることによって、ウォーホルがただのポップアーティストではなく、芸術家として、非常に特異で、斬新な行ないをしたことを、論証していきたい。


ハミルトンは、学問としてのポップアートを発祥した人物である。ポップアートについての研究会や討論会も開いている。そして、これはアメリカン・ポップアートが生まれる前だ。
そして、概念としてのポップアートは、海を越え、アメリカへと受け継がれ、そこで花が咲く。これには、社会的な背景がある。第二次世界大戦で、戦勝国になったイギリスだが、国土は壊滅的打撃を受けていた。
それに対し、アメリカは国土の打撃がほとんどなく、1950年代、高度経済成長化、経済的にも、文化的にも、繁栄の時代を謳歌していた。その時代、イギリスから見たアメリカは、夢の溢れる、憧れの存在であり、また、それを支えるのが高度に発展しつつある経済成長であることも、自明のことであった。
だからこそ、イギリス人、ハミルトンは、アメリカ文化を、謳歌することができない代わりに、それを学問として分析したとも言える。
そして、注意すべき点は、ハミルトン自身、アーティストであったが、同時に、アメリカ文化を分析する立場であったため、彼の作品には、アメリカ文化そのものを描くというよりも、より分析的に「どのようにしてあのような豊かな文化が構築されているのか」という疑問を解こうとする姿勢もまた強く存在するということである。
彼の代表作である作品のタイトルが、<何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力的にしているのか> というものであることからも、それは十分に伺える。



まず、この作品が生まれた背景を整理しておきたい。[i]1950年頃のイギリスでは、ポップアートの胎動とでも言うべき動きが起こっていた。
それ以前のイギリスは、パリの影響下にあり、イギリス独自の流派というのは目立っては存在していなかった。それに対し、リチャード・ハミルトン、エドワード・パオロッティ、ピーター・スミッソンらは、インディペンデント・グループを結成する。195253年頃から、定期的に研究会や公開討論会を開催するようになる。
そのテーマは、インダストリアリズムの社会、空想科学、大衆文化と、芸術とをどのように結び付けていくべきか、という先鋭的なものであった。具体的な公開討論のテーマは「空想科学小説」「芸術およびマスメディアにあわわれた人間のイメージ」「自動車のスタイリング」「ポピュラー・ミュージック」「ファッション」「消費生産」などで、ハミルトンは「消費者商品」というテーマで演説をした。
インディペンデント・グループに共通する問題意識は、「工業生産的な環境、大衆文化、都市的な日常性といったものへの関心を抜きにして今日の芸術はありえない」というものであった。そして、その問題意識を学術的な姿勢で研究したことにも特徴があった。
1955年、ハミルトンは、ロンドンで「人間、機械、動き」という自動車などの機械と人間との関係をテーマにした展覧会を開催。さらに、1956年にロンドン、ホワイトチャペル・アートギャラリーで「これが明日だ」というポップアートの始まりを宣言する展覧会を開催する。その展覧会の壁面の一部として、このハミルトンの<何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力的にしているのかが展示されたのである。



この写真コラージュは、ある室内が舞台である。その中に於いて、右側に裸の女性がポーズをとって座っており、中央にはボディビルで鍛えたような裸の男が「POP」と書かれた巨大な飴を抱えている。壁にはポスターや漫画の拡大図が掛かり、左手の階段の方を見ると電機掃除機を使用している女性がいる。また、テープレコーダー、テレビなど当時の最新式電気器具が散りばめられており、部屋全体に華やかで近代的な雰囲気をもたらしている。
ハミルトンは、この作品に関しこう述べる。「これは、今日の社会への冷笑的なコメントではありません。私の目的は、日常的な事物と日常的な生き方の叙事詩とは何かを探究することにある」[ii]
コラージュされた事物それぞれが、全て豊かな文化を象徴するようなものであり、それをひとつの部屋の中に様々な形で集積することで、今日の生活のありようが、どのように構築されているのかを分析し、提示しようという意図がこの発言から感じられる。また、様々な新しいものが、部屋の中に次々と生活に入り込んでくる生活を楽しむような、前向きなユーモアも作品全体の雰囲気から見て取れる。



 そして、このハミルトンの作品、また、分析的な姿勢は、ウォーホルと四つの点で、決定的に異なることを、ここで明示しておかなければならない。
  ハミルトンとウォーホルは、決定的な違いによって分断されている。そして、本論文の主役であるウォーホルが、いかにその発祥であるポップアートの元祖と、異なるアプローチで作品を制作していたかを、ここで明らかにしたい。

 まず、ハミルトンの特徴は


①分析的なこと
 ②イメージを加工する
 ③加工したイメージを再構築する
 ④複数のアイコンを使用する 

であることが挙げられる。

対して、ウォーホルの作品、1962年に描かれた<キャンベルスープ である。これを、ハミルトンの特徴と比較しながら検証していきたい。

 この作品は、ハミルトンの作品に対して、正反対の性質を持っている。つまり、

 ①非析的なこと
 ②イメージを加工しない
 ③加工したイメージを再構築しない
 ④単一のアイコンを使用する 

ということである。

 ハミルトンとの比較によって表れてくるこの特徴が、ウォーホルの、ポップアーティストとしてではなく、芸術家としての大きな特異性を示すのである。そして、この四つは密接に繋がっている。では、具体的に、先に挙げたウォーホルの四つの特徴を検証していく。

 ①非分析的。
 分析にはメディアに対する、賛同と同時に批判も存在しなくてはならない。 ウォーホルのこの絵画には、賛同も、批判もない。
先ほど、ハミルトンの発言「これは、今日の社会への冷笑的なコメントではありません」を紹介したが、この発言は、ハミルトンの絵画の中に過剰とも言える情報が溢れているため、そこに「現代社会に対する批判」もしくは「警鐘」というメッセージが潜んでいるのではないかと、鑑賞者が考えるのをハミルトンが見越した上での発言である。


しかし、ウォーホルのこの作品は、情報量が少なすぎる。これが、「賛同」なのか「批判」なのか、という議論の前に、「なぜこれを描いたのか」という疑問が先立つ。
なぜなら、あまりにもモチーフとしてのキャンベルスープを「そのまま」描いているからである。



 ②イメージを加工しない。
 これは、先に述べた、非分析的であることの土台となるものである。ウォーホルの代表的な手法としては、写真で撮ったものを、シルクスクリーンで刷るというものが知られている。ウォーホルは、極端に元イメージを加工することを避ける。
それは、初期に描かれたこの<キャンベルスープ>という手描きの作品でも、全く同様である。ウォーホルはモチーフを「そのまま」描くと述べたように、ウォーホルは、筆致を残したり、色彩を変化させたり、輪郭線のブレを残すことをしていない。
筆致を残さず、色も変えず、輪郭線は無機質に正確に描かれる。つまり絵画としてのニュアンス(伝統的な絵画としての味わいとも言い換えられる)を出すことを、ウォーホルは、徹底的に避けている。
絵画的なモチーフの加工という概念は<キャンベルスープ>に於いては、消し去られている。


 イメージを再構築しない
 これは、先ほど述べた、イメージを加工しないということが前提となることは言うまでもない。そして、この再構築しないことこそが、ウォーホルを考える上で、最も重要である。
構築とは「ある要素を、全体の一つの部分として捉え、部分を集積することで、全体を作り上げること」である。
では、キャンベルスープが部分だと仮定した場合、何の部分なのか。描かれたモチーフが部分だとして、それに対する「全体」が見つからない。
これは、の、単一のアイコンをしようするということにも関連してくる。ウォーホルの絵画において、同一画面内で、「これが主役で、これが脇役」という、画面内での優劣が見当たらない。
この<キャンベルスープ>に於いては、背景が、恣意的に白く塗りつぶされ、図と地の関係が意識されにくいように描かれている。
また、ウォーホルがよく使う手法として、オールオーヴァーに画面がアイコンで埋め尽くされ、どれが主役かを曖昧にすることが挙げられる。(ex.緑のコカコーラの瓶 )。ウォーホルの芸術において、部分に対する全体という考え、そのものがない。部分と全体の区別が存在しない。
ハミルトンの<何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力的にしているのか>での、部屋という「全体」がありその中に「部分」として人物や家電製品などが散りばめられるという手法とは、非常に対照的である。



 つまり、ウォーホルの絵画内では、「部分は、全体に隷属する」という概念がない。それはつまり、画面内にヒエラルキーがないことを意味する。言い換えれば、ウォーホルの絵画内では、物事の優劣が存在しない。


ここで、構造主義の基本概念を援用する。
構造主義が示す世界は、以下のようなものである。世の中のあらゆる要素は、それぞれ、指示するもの、指示されるもの、という関係の中で成り立っている。しかし、指示されるものが上で、指示するものが下ということではない。
「つくえ」という言葉が指示するものが「実際あるつくえ」 ということで、それぞれが意味の「連鎖」で成り立っている。
言葉、存在物、概念、それぞれが、大きなネットワークをつくっている。これが、構造主義の指し示す、基本的な概念である。 



 これは、ウォーホルを読み解く上で、大きなヒントになるのではないかと考える。「ものごとに優劣をつけない(差異はあるにしろ、ヒエラルキーが存在しない)」ところが一致する。そして、意味するもの、意味されるものという関係性も、ウォーホルの絵画内には存在しない。むしろ、そういった関係性は、巧妙に避けられている。
ウォーホルは、意味するもの、意味されるもの、という関係を、強く意識した上で、それを慎重に避けていたのではないだろうか。



もう一度、<キャンベルスープ>を検証してみる。<キャンベルスープ>は、何かを意味するだろうか。この問いへの答えとして、大量生産を意味する。資本主義社会を意味する、などと言うことはできる。
しかし、それはウォーホルの絵画の表層から、なるべく概念的な、分かりやすい回答を得ようとした結果に過ぎない。それは、ウォーホルの絵画「自体」を見ていない。
<キャンベルスープ>は「何も意味しない」という発想が、ここで大切になる。「何も意味しない絵画などあり得ない」という固定概念こそが、ウォーホルの絵画「自体」を分析することの、障壁となっている。


では、<キャンベルスープ>は、何かに意味されるか? 無論、「キャンベルスープ」という言葉は、「実際のキャンベルスープ」を意味する。しかし、ウォーホルの<キャンベルスープ>という絵画の中には、すでに「キャンベルスープ」という「文字」が書かれている。
つまり、指し示されるのを、すでにその文字を描くことで防いでいるのではないか。作品を前にして、「これはキャンベルスープですよ」と、言葉で説明する前に、「もうすでに書いてある」。すなわち、意味されることは、あらかじめ避けられている。


ここまで、初めに、ハミルトンとの相違点から着想し、ウォーホルの特徴を見てきた。ウォーホルの特殊な立ち位置はここにある。作品として、その意味のネットワーク(意味的世界)の中で、どう自立し、「芸術」としてどのようにしたらネットワークの中で「存在する」ことができるのか、周到に考えてあるのだ。考えた上で、このような絵画形式を選択している。
「意味されず、意味しない」という立場で、意味のネットワークの内部に、「潜んで」いる。どんな網にも引っかからない。しかし、網の中にいる。内部にいるアウトサイダーというパラドックスである。
このような、特殊な立ち位置を発見し、そこに身を置くのがウォーホルの作品である。



これまでをいったん、まとめよう。


ハミルトンはイメージを分析し、加工し、再構築するのに対し、ウォーホルは、非分析的であり、イメージを加工しない。
そして、イメージを再構築しない。再構築とは「構築=部分を足していって全体へ」と定義付けられる。
その上で、ウォーホルの画面上に、部分と全体という、優劣がないことを述べた。そこで、構造主義の概念を引用しつつ、「優劣ではなく、お互いがつながり合うネットワークという形の世界」というヴィジョンがウォーホルに当てはまることを述べた。
そして、ウォーホルは、その構造を意識している。意識しているからこそ、網に絡め取られないように、 注意深く、その網と網の隙間に位置する。
つまり、意味されることも、意味することもない、位置を確保しているのではないかという結論である。

この、「誰もが見えるけれども、見えないという、特異なポジショニング」。これこそが、ポップアーティストとしてのみならず、芸術家としてのウォーホルの、非常に特殊な立ち位置である。


〈注〉

[i] リパード,L. (宮川淳訳) (1967) 『ポップ・アート』 紀伊国屋書店pp.33-34, pp.38-39
[ii] 日向あき子 (1995) 『ポップ・マニエリスム』 冲績社p.220


© Tatsuyuki Itagaki

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