2011/12/07

【映画】 "2001年宇宙の旅" キューブリック


"2001年 宇宙の旅" - 相対性理論、一神教 -




2001年宇宙の旅(原題は、2001:スペース・オデェッセイ)は、"相対性理論"と"一神教"の視点から観ると面白いと思う。


月に着陸するときに、画面をスペースシャトルが横切るカットなんて、説明的には何の意味もない。あれは、観客に、宇宙的時間感覚を体験させ、その時間感覚が地球とは大きく違うことを示すもの。


ラストの(観てない人はネタバレです)、だんだん年老いていくところも、空間(あの部屋では主人公の位置の違いで象徴的に示される)によって、時間の流れは変わるという相対性理論の核心をビジュアル化したみたいに見える。あの観せかた、本当にうまい。


一番ラストのニーチェの永劫回帰は置いといて、問題はモノリスだ。モノリスは自分には一神教が如何にして成立したかの、太古からの問い掛けに感じられる。多神教ではなく一神教。では、相対性理論と一神教がどのように結びつくのか…。


アインシュタインがユダヤ人で、ユダヤ=キリスト教が今、地球を代表する一神教であることは間違いないし、なんらかの関わりはあると思うけど、それもまた横に置いといて、問題は相対性理論そのものと、一神教の関係だ。


一神教、ユダヤ=キリスト教は、どのように成立したか。まず、エジプトに奴隷として収容されたイスラエルの民が生み出した宗教、つまり極端な疎外感を感じざるを得なかった民の宗教だ。そこでは、異国の民としての孤立感(後に選民思想として現れる)があっただろう。


逆説的に、ユダヤ民族の連帯感は強烈だったはずだ。ほかとは「違う」時間がユダヤ共同体内には流れていたに違いない。その、周囲との圧倒的な断絶が強力な宗教、つまりヤハウェのみを信仰する、おそらく史上初の体系的な一神教を生んだ。


エジプトの太陽信仰も一神教といえば一神教だが、これほどの凄まじい強烈な戒律と体系は持たない。ユダヤ民族は、さっき書いた、周囲との断絶が凄まじい、危機的状況だからこそ、ある意味気が狂っているとも言えるほどの、他の民族とは全く異質の信仰を生み出した。そこでは、流れる時間さえ違った。


ここで、相対性理論とつながってくる。相対性理論は、大雑把に言えば空間の質によって、内部に流れる時間が変動する、つまり時間は絶対的なものではたく、相対的なものだという理論。短絡的かもしれないが、ちょっと眠くなってきたのでまとめに入る。。


ユダヤ=キリスト教に代表される一神教が持つ絶対的な感覚は、時間感覚ともつながりを持つ。あり得ないことだが、抽象的に考えてもらうと分かりやすいが、同じ地球上にいながらも、一神教を信じている人々、違う一神教を信じる人々、その他の人々は、時間の流れかたが違う。


来世思想を例にとると分かりやすいが、眠いので省略…。同じ地球上にいながらも、思想によって時間(歴史とも言い換えられる)が違うこと。これは、地球上で起こっている相対性理論にほかならない。


"2001年宇宙の旅"の原題は、"2001:Space Odyssey"だが、直訳すると2001:宇宙叙事詩だ。叙事詩、つまり、歴史を自分なりに解釈した物語という意味だ。冒頭、サルばっか出てくる原始時代から、21世紀へとワープするが、その間に何があったか。それは省略されている。


なぜ、恣意的に省略されているのか。そこがテーマだからだ。相対性理論とともに宇宙を旅する物語の背後には、モノリスという人間が創り出した最強の作品とも言える一神教が伴っている。2001年宇宙の旅は、未来を描く映画ではない。未来にしては、2001年という設定は当時としても近すぎる。


2001年宇宙の旅が描くものは、猿が骨を空間に投げてから、宇宙船が飛ぶまでの間に、人間が何をしたかを描いたものだ。つまりテーマは過去だ。とりわけ、一神教という多くの戦争を引き起こし、多くの人を犠牲にしたものに対する、問いかけであり反省だ。ラストの赤ん坊だけが未来を指し示している。


一応まとめると、アインシュタインの相対性理論と、地球上の宗教的意味での(比喩的な)相対性理論。この相似関係 。これが、この映画の大事なテーマのひとつだと思う。


そして20世紀の血みどろの争いも、この(比喩的な意味での)相対性理論と強く結びついている。キューブリックが意図したかどうかは分からないが、予言的にも、21世紀に入ってからの9.11とも深く結びついてしまっている。このことを考えると、1968年に作られたこの映画のテーマが、普遍的であること。それが、よりリアルに浮き彫りにされてくる。




補足:


この映画は、宗教を信仰している人々と、宗教を信仰していない人々。
その精神構造の違いを考える上で、非常に示唆に富んでいる。


ちなみに、私は「宗教を信じる」ということが、一体どういうことなのか?...どうしても分からないのです。。











【作家論】Chim↑Pom ≪Black of Death≫


Chim↑Pomの作品が持つ「有害性」



仮想現実、つまりパラレル・ワールドは、既に日本であふれており、決してそれは目新しいものではない。むしろ、見慣れたものであると言うことさえできる。

日本人は仮想現実的要素を、現在の国内の場所に見飽きるおり、もはや退屈している。

現代の日本の都市は、すでに、ずっと前からパラレル化している。渋谷のスクランブル交差点では、三つの大画面のスクリーンに映像が映し出され、「その場自体」が、すでに現実と仮想現実が混同したものになっている。また、その都市を行く人々も、名前のない匿名的存在である。

また、10年前なら違うだろうが、日本の都市がパラレル構造を持っていることは、もはや芸術の世界から見ても自明であり、ことさら、そこに芸術的な新鮮さを見出すことも、00年代中期からは無くなってきている。

また、よく00年代中期までには議論された、ハイ(高尚なもの)とロウ(低俗・キッチュなもの)が混在する面白さ、その批評性も、村上隆をはじめとする多くのアーティストが、すでに、90年代後期から表現し続けており、もはや、このフィールドに新鮮さがあるとは言い難い。

しかし、そこで現れたのが、Chim↑Pomである。
この集団は、端的に言うと「有害」であるところに特徴がある。

広島の上空に「ピカッ」という文字を軽飛行機で描く作品。「スーパー☆ラット」と称して渋谷で捕獲したネズミを剥製化し、ピカチュウのように仕立てあげた作品。これらは、観る側によっては、感情を逆撫でさせられるような要素を持つ。
実際、広島での作品は、Chim↑Pom側が謝罪するという事態まで発展しており、社会との軋轢を生んでいる。

ただ、パラレル化した社会、もしくはそれを「クールジャパン」などという概念で捉えること。そこに、上述のような、ある種の円熟、または停滞を感じてきた者にとっては、Chim↑Pomの作品は、これまでの日本現代アートシーンとは一線を画すものであり、否が応でも反応してしまう強さがある。

繰り返しになるが、現代日本の都市がパラレル・ワールドを内包している事態が誰の目にも明らかになった中、それはもはやただの退屈な現実社会であり、この状況をアートに落とし込んだとしても、それは既視感のある退屈なアートにならざるを得ない。

Chim↑Pomが投げかける疑問とは、「仮想現実と現実が、分裂し共存」(パラレル化)しているかのように見える(そして、そう長い間、言われている)この街は、「本当に」私たちが見て感じているものと同等なのだろうか。
このような素朴な違和感に基づくものである。

パラレル化が完了されてから、その時代は90年代後半から現在まで、あまりに長く続いている。そこに「感性の欠落」が生まれる。なぜなら、仮想現実的な世界を選択することが可能であることとは、本質的に自身の身体から切り離され、また、社会からもパラレルな位置関係を保てることである。そのような状態は根本的に「無害」だ。誰にも迷惑をかけない、そして自分も傷つくこともない。
そのような逃避的な選択肢が、予め用意された世界だ。
この状態を否定するつもりは、毛頭ない。現実世界だけで生きるには、あまりに苦しい者が、もう一つの選択肢を持つことは、極めて賢明な判断であり、多くの人がそれによって救われている。だからこそ、この状態は長く続いている。


しかし、リアリティを求める者にとって、この膠着した平和さは、ひどく退屈なものである。ことさら、アーティストにとってはそうであろう。

本質的に「無害」なものが用意されており、その枠内で活動する限り、日本の現代アートにおいて、永遠に新しい視点は生まれ得ない。

あえて、「有害」であること。社会的コンテクストから逸脱したり、非難を浴びるような行為をすること。

それによってしか見えてこない地平がある。停滞した日本のアートの現状においては。しかし、「有害」であれば、それでいいということでも、もちろん、ない。

ある種の、私たちが見落としていた、「本当の」リアリティ。「無害」な仮想現実では、感ずることができなかったもの。

それが、暴かれる過程として、「有害」が存在する。


それが、Chim↑Pomの作品が、単に「有害」なだけではなく、ある種、必然的に、優れた芸術作品としても認められる故である。

この、≪Black of Death≫と題された作品。内容は、カラスの剥製と、カラスの鳴き声を録音したものを拡声器で流し、東京の渋谷109をはじめ、各種のイコン的スポットにカラスを集合させるというものだ。

これは、Chim↑Pomの作品としては、一見、比較的「有害」ではないように見えるが、そうではない。本質的な「有害さ」はChim↑Pomの作品全てに共通する。無論、広島の件のように、加害者、被害者(精神的加害、被害、という意味での)とう分かり易い図式は持たない。

しかし、ある暗黙の了解がある都市において、その都市風景を変えること。それも、政治家、いわゆる一般市民でなく、ギャル的な格好をした、政治的、都市環境的なコンテクストに、全く関わってこなかった人々、つまりChim↑Pomのような集団が、例えば渋谷という東京を象徴するような都市を、カラスの群れで覆い尽くし、ヴィジュアルを変えてしまうこと。

それは、都市に生きる我々にとっては、明らかにコンテクストから逸脱した行為であり、また、周囲への配慮というものも、全くといっていいほど除外されており、不快感をあおる要素は山ほどある。

「配慮」というものが欠落している。それは、「有害」といっても差し支えないだろう。

しかし、Chim↑Pomを完全に擁護するわけではないが、Chim↑Pomの、この「配慮しない有害性」が、パラレルを暗黙の前提として、常に「逃げ道」を確保しながら都市を行き交う我々に、新たな鮮烈なヴィジョンを与えてくれる。

スクーターに乗ったChim↑Pomのメンバーが持つ、カラスの剥製は、仮想現実ではない。本当に、殺され、剥製化されたものだ。そして、それに群がるカラスも、仮想現実ではない。本当のカラスだ。ただ、普段は路上で餌を漁っていて、集団でこのように集まる光景が見えないだけだ。もしくは、大量のカラスが都市に存在することに、目を塞いでいるだけだ。
しかし、我々は、都市の内部に「実際に」潜む大量のカラスを、本当に観る。


Chim↑Pomはそこに「逃れようのないリアリティ」を提示する。


「有害な手段」は、そこで必要なものである。並のアーティストならば躊躇うところを、Chim↑Pomは躊躇わない。


まとめよう。

Chim↑Pomは、現実と仮想現実が共存する世界(パラレル・ワールド化が自明な社会)に、飽きた日本に生きる上で、あえて、有害であり、摩擦すら引き起こす手段を取る。そして、アンチ・仮想現実という、危険地帯に踏み込んでいくアーティストである。

そして、それは現代日本のアートシーンにおいて、強烈なインパクトをもたらし、これまでの「無害」な手段しか使用しなかった多くのアーティストの作品とは、明らかに一線を画す、新たな地平を生みだしている。そして、現在、彼らの作品は、確実に新たなリアリティを獲得している。

Chim↑Pomが「有害さ」を選択するのは、日本という場で、それが表現「手段」として、最善策だからであり、それは、賛否両論あろうとも、極めて賢明な判断と言わざるを得ない。


その「有害さ」がなければ、何も我々は見えないのだ。


参考映像: Chim↑Pom ≪Black of Death≫ (via. youtube)