2011/12/07

【作家論】Chim↑Pom ≪Black of Death≫


Chim↑Pomの作品が持つ「有害性」



仮想現実、つまりパラレル・ワールドは、既に日本であふれており、決してそれは目新しいものではない。むしろ、見慣れたものであると言うことさえできる。

日本人は仮想現実的要素を、現在の国内の場所に見飽きるおり、もはや退屈している。

現代の日本の都市は、すでに、ずっと前からパラレル化している。渋谷のスクランブル交差点では、三つの大画面のスクリーンに映像が映し出され、「その場自体」が、すでに現実と仮想現実が混同したものになっている。また、その都市を行く人々も、名前のない匿名的存在である。

また、10年前なら違うだろうが、日本の都市がパラレル構造を持っていることは、もはや芸術の世界から見ても自明であり、ことさら、そこに芸術的な新鮮さを見出すことも、00年代中期からは無くなってきている。

また、よく00年代中期までには議論された、ハイ(高尚なもの)とロウ(低俗・キッチュなもの)が混在する面白さ、その批評性も、村上隆をはじめとする多くのアーティストが、すでに、90年代後期から表現し続けており、もはや、このフィールドに新鮮さがあるとは言い難い。

しかし、そこで現れたのが、Chim↑Pomである。
この集団は、端的に言うと「有害」であるところに特徴がある。

広島の上空に「ピカッ」という文字を軽飛行機で描く作品。「スーパー☆ラット」と称して渋谷で捕獲したネズミを剥製化し、ピカチュウのように仕立てあげた作品。これらは、観る側によっては、感情を逆撫でさせられるような要素を持つ。
実際、広島での作品は、Chim↑Pom側が謝罪するという事態まで発展しており、社会との軋轢を生んでいる。

ただ、パラレル化した社会、もしくはそれを「クールジャパン」などという概念で捉えること。そこに、上述のような、ある種の円熟、または停滞を感じてきた者にとっては、Chim↑Pomの作品は、これまでの日本現代アートシーンとは一線を画すものであり、否が応でも反応してしまう強さがある。

繰り返しになるが、現代日本の都市がパラレル・ワールドを内包している事態が誰の目にも明らかになった中、それはもはやただの退屈な現実社会であり、この状況をアートに落とし込んだとしても、それは既視感のある退屈なアートにならざるを得ない。

Chim↑Pomが投げかける疑問とは、「仮想現実と現実が、分裂し共存」(パラレル化)しているかのように見える(そして、そう長い間、言われている)この街は、「本当に」私たちが見て感じているものと同等なのだろうか。
このような素朴な違和感に基づくものである。

パラレル化が完了されてから、その時代は90年代後半から現在まで、あまりに長く続いている。そこに「感性の欠落」が生まれる。なぜなら、仮想現実的な世界を選択することが可能であることとは、本質的に自身の身体から切り離され、また、社会からもパラレルな位置関係を保てることである。そのような状態は根本的に「無害」だ。誰にも迷惑をかけない、そして自分も傷つくこともない。
そのような逃避的な選択肢が、予め用意された世界だ。
この状態を否定するつもりは、毛頭ない。現実世界だけで生きるには、あまりに苦しい者が、もう一つの選択肢を持つことは、極めて賢明な判断であり、多くの人がそれによって救われている。だからこそ、この状態は長く続いている。


しかし、リアリティを求める者にとって、この膠着した平和さは、ひどく退屈なものである。ことさら、アーティストにとってはそうであろう。

本質的に「無害」なものが用意されており、その枠内で活動する限り、日本の現代アートにおいて、永遠に新しい視点は生まれ得ない。

あえて、「有害」であること。社会的コンテクストから逸脱したり、非難を浴びるような行為をすること。

それによってしか見えてこない地平がある。停滞した日本のアートの現状においては。しかし、「有害」であれば、それでいいということでも、もちろん、ない。

ある種の、私たちが見落としていた、「本当の」リアリティ。「無害」な仮想現実では、感ずることができなかったもの。

それが、暴かれる過程として、「有害」が存在する。


それが、Chim↑Pomの作品が、単に「有害」なだけではなく、ある種、必然的に、優れた芸術作品としても認められる故である。

この、≪Black of Death≫と題された作品。内容は、カラスの剥製と、カラスの鳴き声を録音したものを拡声器で流し、東京の渋谷109をはじめ、各種のイコン的スポットにカラスを集合させるというものだ。

これは、Chim↑Pomの作品としては、一見、比較的「有害」ではないように見えるが、そうではない。本質的な「有害さ」はChim↑Pomの作品全てに共通する。無論、広島の件のように、加害者、被害者(精神的加害、被害、という意味での)とう分かり易い図式は持たない。

しかし、ある暗黙の了解がある都市において、その都市風景を変えること。それも、政治家、いわゆる一般市民でなく、ギャル的な格好をした、政治的、都市環境的なコンテクストに、全く関わってこなかった人々、つまりChim↑Pomのような集団が、例えば渋谷という東京を象徴するような都市を、カラスの群れで覆い尽くし、ヴィジュアルを変えてしまうこと。

それは、都市に生きる我々にとっては、明らかにコンテクストから逸脱した行為であり、また、周囲への配慮というものも、全くといっていいほど除外されており、不快感をあおる要素は山ほどある。

「配慮」というものが欠落している。それは、「有害」といっても差し支えないだろう。

しかし、Chim↑Pomを完全に擁護するわけではないが、Chim↑Pomの、この「配慮しない有害性」が、パラレルを暗黙の前提として、常に「逃げ道」を確保しながら都市を行き交う我々に、新たな鮮烈なヴィジョンを与えてくれる。

スクーターに乗ったChim↑Pomのメンバーが持つ、カラスの剥製は、仮想現実ではない。本当に、殺され、剥製化されたものだ。そして、それに群がるカラスも、仮想現実ではない。本当のカラスだ。ただ、普段は路上で餌を漁っていて、集団でこのように集まる光景が見えないだけだ。もしくは、大量のカラスが都市に存在することに、目を塞いでいるだけだ。
しかし、我々は、都市の内部に「実際に」潜む大量のカラスを、本当に観る。


Chim↑Pomはそこに「逃れようのないリアリティ」を提示する。


「有害な手段」は、そこで必要なものである。並のアーティストならば躊躇うところを、Chim↑Pomは躊躇わない。


まとめよう。

Chim↑Pomは、現実と仮想現実が共存する世界(パラレル・ワールド化が自明な社会)に、飽きた日本に生きる上で、あえて、有害であり、摩擦すら引き起こす手段を取る。そして、アンチ・仮想現実という、危険地帯に踏み込んでいくアーティストである。

そして、それは現代日本のアートシーンにおいて、強烈なインパクトをもたらし、これまでの「無害」な手段しか使用しなかった多くのアーティストの作品とは、明らかに一線を画す、新たな地平を生みだしている。そして、現在、彼らの作品は、確実に新たなリアリティを獲得している。

Chim↑Pomが「有害さ」を選択するのは、日本という場で、それが表現「手段」として、最善策だからであり、それは、賛否両論あろうとも、極めて賢明な判断と言わざるを得ない。


その「有害さ」がなければ、何も我々は見えないのだ。


参考映像: Chim↑Pom ≪Black of Death≫ (via. youtube)

0 件のコメント:

コメントを投稿