2011/12/12

【映画】 "セブンス・コンチネント" ミヒャエル・ハネケ


1.ハネケのセブンスコンチネントという映画では、日常生活を成立させるに必要な文法がまず、詳細に描かれてた。歯磨きとか食器洗いとか…。 で、まず水槽が破壊され、紙幣が捨てられ、文法が無化する。


2.文法が無化された後、一家でテレビを眺める。よくある歌番組が映っている。 ここで、初めて脱コードが示されたのではないか。 つまり順序が重要だ。破壊されるのは文法が先で、最終的にコードが破壊される。コードを破壊するためにハネケは周到な用意をしている。


3.ハネケは分かっている。非日常的な行為によって、文法は壊せても、まだコードは壊せないのだ。 一家が心中するという、理解不可能な事件をモチーフに、周囲との遮断の可能性を探っている。そして、それがどのようにして可能か観客に問うている。


4.説得性を持たせるために、 まず日常文法の破壊、そして、そのあとにようやく訪れる、脱コード性。周囲との完全な遮断は、行為によって用意され、感情によって完結する。 この段階を追体験させることで、地球上に六つしかないはずの場所に、コードを通り抜けた第七の大陸を初めて出現させる。


5.難解な映画だ。。 でも、ここまで説明しなければ、セブンスコンチネントという概念は、完結しない。 要は、完全にコミュニケーションから外れた場所を創り出すのも、 並大抵の努力ではできないし、理論的裏付けが、どうしても必要になってくる。 それほど、この社会から逃れるのは難しい。


6.日常生活を徹底的に観察し、そこに人間との断絶を見出すこと。
(これは、私が研究しているアンディ・ウォーホルと共通する点である。ちなみに、ハネケの"ベニーズ・ヴィデオ"ではウォーホルの絵画が登場する)


7.付け加えると、映画セブンスコンチネントでの一家でテレビを観るシーン。 テレビの中で歌う歌手は、正しい形で「表現」している。歌番組という文法の中で、それに即して歌っている。 しかし、一家は受け取らない。伝達は不成功に終わっている。 正しい文法に則った表現が、なぜ不成功に終わるのか。


8.受け取る側と発信側の溝ゆえだ。どういった溝か。 それが、コードの本質だ。 全ての、「表現、伝達」の条件が整っているにも関わらず、それを不成功に終わらせるもの。 家族は、家を全て破壊した。残るのは何か。心だ。感情とも言い換えられる。しかし、果たして感情は残っているのか。


9.そもそも、感情とは何か。どうやって感情があるか無いか計れるのか。 それは、発信者からのメッセージを受け取る意思、もしくは意識があるかどうかだ、とハネケは言っているのではないか。 つまり、相手のコードに自分のコードを合わせる意思。これが感情の本質だと言っているのではないか。


10.そして、この映画では両親にその意思が無くなっていることを明確に示すためにテレビが使われる。 ただ、ハネケの他の映画、隠された記憶などでも、執拗にテレビは登場する。そして、それは登場人物に伝達されない。内容が世界の情勢など、登場人物と無関係なものが恣意的に選ばれている。


11.表現、伝達されるが、それを受け取らない。伝達の失敗。 日常生活の中で繰り返されるコードの無力化。その象徴としてのテレビと人の間の伝達の失敗。 画面のあらゆるところにコードの不在が暗示される。


12. 重要なのは、"感情の不在"、もしくは"感情の喪失"の本質は、まさに、その日常的に繰り返される"コードの不在"に潜んでいるということだ。







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