2011/12/12

【音楽】マイブラ (My Bloody Valentine)

マイブラ -ノイズによるディスコミュニケーション、その後に訪れる新たな契約 -

1.Googleで調べたら、 disるは、disrespectの略だった。。 尊重しない、尊敬しないだから、 受け流すってより、その人の価値を無視する。侮辱する。軽蔑する。 とか、そんな感じ。

2.disrespectって面白い概念だな。 だって、相手の存在を認めつつ、それを否定するんだから、 無関心とかよりも、かなり強い。。 感情がこもってるし、なんか怨念を感じる。接続ではなく切断。

3.ただ、切断するにも理由がある場合がある。 切断することによって失うことよりも、得ることのほうが多い場合。 得るものとは、再び生き返った、新たな契約。再構築されたコミュニケーション。

4.ここで思い出すのは、音楽のシューゲイザー。じっと、足元を見て、観客を見ずに、轟音を鳴らしまくる、バンド。ある意味、観客をひたすら、disる、パフォーマンス。
マイブラがその代表。 マイブラの、"you made me realize"での、ひたすら20分くらいノイズだけを轟音で鳴らされる修行のようなライブを体験した。あれは、観客をある意味でdisること、もしくは、観客とのディスコミュニケーションを経ての、新しい契約、繋がりを獲得する経験だった。

5.新たな契約には、一旦、関係をリセットする必要があって、あれだけ長時間ノイズの嵐を観客に体験させる。 バンドと観客の関係は、そこでカオス化し、究極のゼロ地点まで、引き下げられる。脱コード化、脱共感、脱感動、脱コミュニケーション。 そして、もう一度、同じリフに帰った時、新たな関係が結ばれる。

6.マイブラと観客の新たな関係とは何か。。新しい契約。新約聖書になぞらえれば、(神との)新たな約束だ。 マイブラと観客の間の関係ではない。長く聴き苦しいほどのノイズの世界のとき、観客は音楽への依存を断念する。そのとき、もう一つの何かに気付く。

7.マイブラの音楽と観客という、分かりやすい関係が破綻しかかった時、観客は、マイブラへの依存を辞め、自ら、神を見出す。ノイズはそのための装置に過ぎない。 もう一度、イントロへ帰った時、ものすごい歓声が起こるのは、安心ではなく、その逆だ。何かを手に入れた喜びだ。しかも、自力で。

8.2008年のフジロックでは、マイブラを観た後、他のバンドが聴けなくなったという声が聞かれたが(自分もそういう状態になった)、それは、マイブラしか聴けないということではない。 音楽とは何かが、分からなくなったのだ。 なぜか。 観客とコミュニケーションするのが、ライブだという固定概念が外されたからだ。

9.つまり、ライブ=バンドと観客の共感。という、最低限守られていたルール(たとえ音響派でもアンビエントでも音楽のジャンルは問わない)が、変えられたのだ。 はっきり言えば、音楽ファンが音楽に依存しているという、暗黙の了解、そしてそれを良しとされている場(ロックフェス)で、 その依存を断ち切ったのだ。

10.無意識ながら、自立してしまった音楽ファンは、一時的にしろ、 「音楽を必要としなくなった」 それが、08'フジロックは初日のマイブラで終わったと言われる原因ではないか。 いや、そう思ったり言っているのは、自分を含めたごく少数派かもしれない。

11.ただ、マイブラのアクトが終わった後の、星の美しさが、普段見慣れている星と、比べものにならない程、美しかったのは、事実だ。はっきり覚えている。 あの時、輝く星を観て、白痴のように、清々しくあっけらかんと感動したのは、星の輝きが変わったのではなく、自分の何かが変わったのだ。

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