結論から言うと、面白かったです。よく構築されているなぁ..と感心しました。
いわゆる震災に対するレスポンスの一つだと思うのですが、それが非常に質感的にリアル。
「質感」というのは映画に於いて、とても大事。見終わった後の感覚は、おおよそ、その映画のストーリーでも役者でもなく、全体の質感に左右されます。
自分の場合だけかもしれないですが。。
エヴァQは、見終わった後の質感が非常に良かった。
と言いますのは、震災後の「今、個々人が感じているリアル」を緻密に、写実的にと言いますか、克明に写し取っている気が致しました。
明確な震災に対する回答など、無理だし、無力。そういう事は、多くの個々人が考えていることだと思います。その、混沌ですらない、漂う感覚、不安感。そして、妙に整理された「震災後」というキーワードの質感(本来は整理不可能なはずです)。カオスをカオスとして認めない国民性。だからと言って、明確な回答も出さない国民性。そして、適当なあたかも整理された/されようとしている、かのように思いたい国民性。
皮肉ながら、それを鏡のように、写し取ったら、こうなった。
そんな作品ではないでしょうか。
今回のエヴァQのプロットは簡単に言うと、こんな感じだと思います。
(以下、ネタバレになります)
サード・インパクトを起こしてしまったシンジ君が、罪悪感に苛まれる。
(「インパクト」というのは、エヴァ用語では「人類滅亡の危機を与える地球規模の物理的衝撃」です。「非常に大きな核爆発」「巨大隕石の地球衝突」などを連想してもらえると分かり易いかと。ただし、人為的に起きるものなので、前者の例のほうが、近いですね。その「サード」、三回目という事です。)
シンジ君は最初は、記憶がない。14年前に自分が起こしてしまった罪を知らない状態。
そこから、周囲の破壊された風景を見るなどして、自分の罪を自覚します。
それで、罪を償おうとするんですね。あまりエヴァに詳しくないので分かりませんが、
地下にある二つの槍を抜くことで、世界が取り戻せる。
そう信じて、槍を抜くわけです。
でも、不幸なことに、槍を抜くと、逆にフォース・インパクトが起きてしまう。
かわいそうに..シンジ君...
故意ではないんですが、槍を抜く前に、隣にいた渚カヲル君という人が、何か異変に気付いて止めてるんです。でも、シンジ君は罪を償うことのみに猛進して、逆に世界を破壊してしまう。
そのフォース・インパクトなんですが、結末としては起きない、というか完全に起きる寸前で止まります。
なぜかというと、さっき登場した、渚カヲル君が、自らの命と引き換えに、なんかあれこれして、防ぐ。
それで、よかったよかった。と終わるわけではなく、その後、取り残された、シンジ君とアスカ(昔の旧友みたいな人)が、フォース・インパクトが起きそうになった時に破壊された、真っ赤な荒れ地を歩くところで終わります。
説明が下手ですみませんが、たぶん、観た人が多いのでいいでしょう。
簡単に言うと、プロットとしては、何も進んでいないわけです。
フォース・インパクトが起こりそうになって、それを防いだ。それだけで、何も変わっていない。
変わらないのは、サード・インパクトによって破壊された現状だけです。
これはとてもリアルだと思いませんか。
ある種の破壊が訪れ、それはどうにもならない。ただ、心情的な悔いだけは残る。
次の破壊を防ごうとして、一応、不完全ながらも防ぐ。
ただし、その後、また破壊が起きないという保証はない。
今の日本、そのまんまです。
ここで重要なのは、フォース・インパクトにこの映画の重点が置かれている点。
そして、それが(不完全ながら)起きてしまうという点です。
「日本はまだ揺れている」ということです。
3.11が最後ではなく、今後、いつ起こるか分からない。
そして、それに対する対策も、具体的には取っていない。
いや、取っているのですが、(ミサトさん、アスカなどは、それを行なっています)
それが実質的に次なる破壊を防げるとは、誰も保証することができない。
そして、さらに言えば、サード・インパクトも、フォース・インパクトも、人為的に起きている、という事。劇中では「トリガー(引き金)」という言葉が多用されていましたが、
全責任はないとしても、破壊のトリガーとしてシンジ君が居る。
アナロジカルに言うと、シンジ君は原発みたいなものです。自らが出した放射能には、なす術がない。無力です。それを償おうと(原発を擬人化すれば)して、
またトリガーを引いてしまう。
シンジ君は、アスカやミサトさんに、「あなたはもういらない」と言われます。
閉じ込めておくべきだと。危険ですから。
シンジ君は単純な読み方をすれば、理性を失った原子力発電所です。
ただ、それはあまりに政治的で退屈な見方です。
ここには、日本人が持つ、一神教に対する複雑な心情が背景としてある。
ネルフという組織(?)は、一神教的なモノリスに象徴されるゼーレという組織(?)の支配下にありますが、
そのモノリスたちは(モノ=単一という意味なので矛盾した言い方ですが)、喋るし、神のようなくぐもった声ながら、明らかに人間的な声色を背後に感じさせるものです。
モノリスが複数あるというように、これは単純な一神教ではなく、そして、多神教でもない。
ただし、ゼーレには絶対的な力がある。ただし、超越的な力ではない。
簡単に言えば、滅茶苦茶なんです。設定が。もともとエヴァは。
ただし、それが、日本人が持つ宗教観と、非常にマッチしている。
キリスト教の用語を数多く取り入れ、それを小出しにするやり方は、宗教の神秘、
死海文書などの「出していいのか」と思うような固有名詞も出てきますが、
適当にキリスト教的なものをちりばめ、それを神秘的、そして、ある種の謎解き要素として、
つまり重要なヒントとしてストーリーに忍ばせておく。
ダサいと思いませんか。キリスト教の、表層的な神秘感を、そのさらにうわずみだけを取り出して、あたかも世界の体系を語ったようなストーリーにする。
この浅はかさ。
これこそが、エヴァの本質なんだと思います。パロディというよりも、雰囲気遊びで、
触れてはいけないものも利用して、
観た感じ心地よいものを、観るものに届ける。中身は、ただの少年の思春期の、「承認」への葛藤。
これほど、馬鹿らしいアニメを日本の多くの人が観る。
これこそが、日本のリアルなのです。
つまり、震災に関しても、一神教への表層的憧れに対しても、何も答えをだすわけがない。そもそも、出す意志が欠落している。
そして、ただ何かに怯えている。
そして、何かと精神性に持っていって、世界を、一人の青年の心情とあたかもリンクしたように矮小化してしまう。世界を説明するには、少年の心情を通過しないと、できない。その思い込みこそが、日本のマインドです。
サラリーマンが、俺ががんばれが日本が良くなる、と思うのに似てますね。
エヴァは基本的に、そうした日本を、自覚的に鏡のように写し出してきました。
自分は大嫌いですが、テレビシリーズ、エヴァ序、までは観るのも辛いほど、最低の作品だと言えましょう。ただ、我々を映す鏡としては、最高なのかもしれないし、おそらく、上質な鏡と言えると思います。
エヴァ破では、少しそれまでと違って、物語が自律的に動き出します。その結果として、カルチャーとしてのエヴァが、確立された気がします。鏡というより、少し、先を行った感じでしょうか。自分はこの作品は好きです。
で、今回のエヴァQ。
これは、「鏡であるエヴァ」としての原点に立ち戻った感じがします。しかし、ただの表層的鏡ではない。つまり、表面の心地よいものや、心情的に共感しやすいものを写しだす鏡であることは、止めている。
そして、エヴァお得意の「深層心理」を写し出す(なんとインチキ臭い言葉でしょう。でも、エヴァはそれをやってきたのです。良くも悪くも。)ことも止めた。
エヴァQが写し出しているものは、ただ、写実的な、そのままです。
深い真理でも、ましてや回答でもない。
徹底した写実です。
本来の鏡とは、そういうものでしょう。
エヴァの最大の強みは、様々なコンテンツ(エヴァンゲリオンという機械、少年、少女、組織、使徒)を抱えていて、それを自由に操作できる状態まで持ってきているということです。
簡単に言えば、使徒が襲来して来て、シンジ君がエヴァに乗れば、
あとは何をしても「エヴァ」になるのです。
これを最大限に生かした作品が、このQでしょう。
この映画の実質は、据え置きカメラのような、無機質な日本(あえて限定します)に対する、残酷なまでに冷徹な「眼」です。いや、「眼」という言い方は正確ではないかもしれない。「眼」というと主体性が残ってしまう。主体のない、単なる「据え置きカメラ」と言ったほうが良いでしょう。
この映画を観て、どのような感想を抱くかは、正直、私には分かりませんが、
少なくとも、エヴァがこのような段階まで成長したこと(もはや異次元のモンスター化したコンテンツと化しています)、だからこそやれるこの残虐性(冷徹性)。
そこは最大限に評価したいと思います。
2012/12/13
2012/12/06
中間報告原稿 (2012/12/1)
中間報告原稿 (2012.12.01)
アンディ・ウォーホルにおける"machine-like"の意味
【はじめに】
私は、卒業論文に引き続き、アンディ・ウォーホルを取り上げて、修士論文を書きたいと考えております。
修士論文では、キーワードを一つに絞ります。
“machine-like”という言葉です。
【研究テーマ】
アンディ・ウォーホルに於いて、最も重要な要素は、”machine-like”つまり「機械のように」
という概念だと、私は考えます。これは1963年のアートニューズ紙に於いて、ウォーホル自身が、「私は機械になりたい」「誰もが機械であるべきだと私は思う」という発言したことに依っています。果たして、「機械になる」、そして「機械」として芸術作品を創るということは、一体、どのような概念なのでしょうか。ここで、”machine-like”を読み解く重要なキーワードとして「直接性」「痕跡」という概念を、私は提示したいと思います。これは、パースの記号論の指標記号という概念からヒントを得たものです。指標記号は、直接的で、物理的痕跡を残した記号を指します。ウォーホルの作品には、その指標記号としての性質が多々、見受けられます。さらに、指標記号としての作品を成立させる条件として、無媒介性、特に、感情という媒介を排除するウォーホルの手順を検証していきます。このように、直接性、痕跡、指標記号、無媒介性、感情の排除、と読み解いていくことで、ウォーホルの”machine-like”という概念について、考察していきたいと考えています。
【論文構成予定】
第1章
1963年のインタビューから
“machine-like”とは
第2章
直接性
痕跡
パースの記号論における指標記号
第3章
無媒介性
感情の平板化(退屈、反復)
物質としての感情(ミヒャエル・ハネケ、感情の氷河期)
第4章
歴史的位置づけ
・モダニズムとの関連
・リアリズムとの関連
・ミニマリズムとの関連
結語
を予定しています。
では、短い時間ですが、具体的にご説明したいと思います。最後に、これからの課題を提示して終わりに致します。
【1963年のインタビュー】
本論文で、主に扱うのは、1963年のインタビュー前後、1961年から1964年までの作品。そして、1963年のアートニューズ紙でのインタビューです。
ウォーホルのインタビューの多くは、インタビュアーをはぐらかす様な内容ですが、1963年のインタビューでは、珍しくウォーホルが能動的に、自作について述べており、数少ない、ウォーホルの信用性のおける言説と言えます。
1963年のインタビューでは具体的に、このように述べられています。
(引用元)
Interviews by G.R.Swenson, “What is Pop Art?”, Artnews, November, 1963, p.26
「誰もが機械であるべきだと私は思う。」
(I think everybody should be machine)
「私がこのような方法で絵を描く理由は、私は機械になりたいからである。そして、私がすること全て、機械のようにすること全てが、私がしたいことだと感じる。」
(The reason I’m painting this
way is that I want to be a machine,
and I feel that whatever I do and do machine-like
is what I want to do.)
このようにウォーホルは繰り返し、機械について言及しています。
では、機械(machine-like)とはどのような概念なのでしょうか。
まず、ウォーホルが手法として、シルクスクリーンを使うようになったこと。
システマティックに大量生産をするようになったことが挙げられます。
シルクスクリーンは、直接的にイメージを画面に焼き付ける手法であり、実際、ウォーホルは、シルクスクリーンを発見する前から、シルクスクリーンで描いたような、人の手で描かれていないような画面を作り出そうとしています。
また、ウォーホルは、シルクスクリーン特有の、あからさまな痕跡、つまり刷り残しの痕跡を強調します。あたかも機械によって刷られたことを強調するかのようです。
これは、ロザリンド・クラウスが1976年の論文、指標論で述べていることとリンクします。
クラウスは、ウォーホルそのものについては言及していませんが、デュシャンの作品、写真について述べる中で、パースの記号論を引用し、現代美術は、指標性へと向かっている、という内容のことを述べています。
そして、この指標性はウォーホルの”machine-like”という概念と見事に一致します。クラウスの言う、指標性は、ウォーホルの持つ直接性、痕跡という特徴と一致します。以下に、見ていきます。
ではまず、そのロザリンド・クラウスが指標性の前提として引用した、パースの記号論を簡単に説明します。
記号分類の三種
1.
類像/類像的記号 (Icon/iconic)
2.
指標/指標的記号 (Index/indexial)
3.
象徴/象徴的記号(Symbol/symbolic)
******
1. 類像記号の特徴
記号表現は、記号内容に似ているか、意味されているものを模倣しており、そのものが持つある性質を同じように保持していると認められる様態
類像記号の例
肖像画、風刺画、縮尺モデル、隠喩、物真似
2. 指標記号の特徴
記号表現は、恣意的でなく、ある方法(物理的かまたは因果関係で)で記号内容と直接的に結ばれている様態―その結びつきは観察できるか推測できる
指標記号の例
‘自然記号’(煙、雷、足跡)、医学的な徴候(痛み、発疹)、測定機器(風見鶏、温度計、時計)、‘信号’(ドアのノック、電話のベルの音)、指示器(人差し指、方向を指示する道標)、記録写真
3. 象徴記号の特徴
記号表現は、記号内容に似ていず、原則的に恣意的であり、純粋に慣習的でありその関係は学習されなければならない様態(mode)
象徴記号の例
言語一般、数、モールス信号、交通信号、国旗
(実際の記号は、これら3種類の記号が複合化したもの)
引用元:Daniel Chandler, Semiotics for Beginners (on line),University of Wales, 1995, 田沼正也
訳 (http://www.wind.sannet.ne.jp/masa-t/kigou/kigou.html)
ウォーホルの「machine-like」という概念は、パースの言うところの、指標記号、つまり、物理的痕跡、そして直接性との類似性が多く見受けられます。
ウォーホルの色彩は、常に視覚的に直接的です。ヴィヴィッドであり、けばけばしく、人工的な異物感が、すぐに目に飛び込んできます。
また、絵の具なら絵の具そのものの、名残、痕跡がはっきりしている。どの絵の具を使ったのか、はっきり分かる。手法は全て、オープンである。ここに、痕跡に対する強調が見られます。
また、モチーフも遠回しでも比喩でもなく、その元になったもの、つまり、その多くが写真ですが、その写真も誰もが知っているものであり、すぐさま、認識できるものです。
痕跡をあえて、残すこと。それはある意味で稚拙さへの欲求です。稚拙さとは、巧みな技術の正反対です。
巧みな技術とは、陰影を駆使し、イリュージョン的な再現を画面で表現することです。
しかし、ウォーホルは「巧みな技術」の使用を禁ずる。
なぜでしょうか?
それは、「巧みな技術」とは、「事物そのもの」が持つ、直接性、痕跡、などを、技術を駆使して、消してしまうものだからです。
「事物そのもの」の類像、指標でなければならず、それを写し取った痕跡を明らかにしなければならないのが、ウォーホルの作品の原則です。
【写真】
また、ウォーホルが素材として扱う「写真」が持つ性質とは、類像的(icon/iconic)であり、指標的(Index/indexial)。少なくとも象徴的ではありません。
そのイメージを、直接、シルクスクリーンという、極端に無媒介性を追求した手法によって、画面に定着させることで、写真、そのものが持つ類像性、そして、指標性を保持します。
さらに、写真そのものよりも、ウォーホルの作品は直接的です。
それは、写真のキャプションの排除、写真が持つストーリー性の排除によるものです。
そうすることによって、写真の持つ直接性、痕跡性が、より強固になるのです。
【痕跡の例】
ほかにも、痕跡の作品例=《ピス・ペインティング》(1977)があります。これは、酸化させると色が変わるよう施された金属板に、尿をかけた作品です。ここには、尿と金属の間には物理的な因果関係しかありません。
また、《撃たれたマリリン》(1964)は、ファクトリーへの侵入者が、ウォーホルが描いたマリリンを銃で撃ったものです。勿論、これはウォーホルも予期せぬことでしたが、ウォーホルはこれを≪撃たれたマリリン≫として、そのまま作品にしました。
撃たれた痕跡自体に美術的価値があると考えたのです。
【有名人/象徴的記号から指標的記号へ】
《マリリン》(1962),《エルヴィス》(1963)などの有名人を描いたシリーズにおいては、
有名人、つまり、象徴的記号、バックグラウンドが必要な記号を
反復させたり、わざとかすれたようにシルクスクリーンで刷る、色彩を派手に施すことによって、
象徴的記号、つまり、人々が有名人に対して持つ、感情的なイメージに、ダメージを与えます。
有名人は一人でなくてはならない。はっきりと写っていなくてはならない。人らしい色彩でなくてはならない。
そのような、条件を一つずつ崩すことで、バックグラウンドが不要な記号、直接性へと還元(reduction)しています。
もっと言えば、類像的なもの(肖像画)へと、さらに第一次段階へと還元(reduction)しようとすることで、第三段階である象徴的記号から、引き離しています。
映像のおいても、《スクリーンテスト》《エンパイア》(1964)は、ストーリーを省いた、直接性という意味で指標的です。
ウォーホルが惹かれていたのは、この世界の裏側に潜む、事実そのものを表す記号、つまり指標性への希求です。それは、事物の、直接的な痕跡への希求とも言えましょう。
これは、創作(invent)することの回避とも関連づけられます。
ウォーホルは同じインタビューでこのように答えています。
「私はかつて、創作しなければならなかったが、今はそうする必要はない。」
(I’d have to invent and now I
don’t) l.67-68
*注 広告業界で働いていた時代を振り返っての発言
つまり、ウォーホルはかつて働いていた広告業界では創作(invent)、つまりゼロから作るする必要があったが、純粋芸術(ファインアート)の世界では創作は必要ではない、と言っています。これは、ウォーホルが常に、自分がゼロから描いたものではないもの、つまり、他者のものを利用していることと繋がります。
ウォーホルにとって制作とは、ゼロから作る、つまり、inventするものではなく、世界にある痕跡を留めることと言えます。
直接性とは、外から来るもの。つまり、他者性、突然性とも言い換えられる概念です。
では、それを成し遂げるために必要なものは何でしょうか。
その一つとして重要なものは、無媒介性。特に、感情を無くすことです。
【無媒介性/感情の平板化】
感情という媒体が間に入ってしまうと、それは象徴的記号となり、何かしらの物語を持ってしまいます。それは排除する必要があります。
ウォーホルは前出のインタビューでこのように、感情に言及しています。
But
when you see a gruesome picture over and over again, it doesn’t really have any
effect.
でもどんなにおぞましい絵でも、実際は繰り返し見ているとその効果が消えてしまいます。
感情の排除は、手描きの《キャンベルスープ》(1962)から、シルクスクリーンの《キャンベルスープ》への移行の流れからも読み取れます。
象徴的記号として、惨劇シリーズを見た場合、おそろしい、などと、感情的な媒体が介入します。
しかし、繰りかえし見たり、キャプションを無くしたりすることで、指標性、つまり、ただ、偶然そこにあった痕跡、記録写真、つまり、非言語的、非象徴的なものへと変化していきます。
【まとめ】
まとめると、ウォーホルが確立した、「machine-like」という概念は、直接性、痕跡と言い換え可能です。
そして、それはあらゆる媒介を無くすこと、つまり、無媒介性が必要条件です。特に、人間、誰しもが持つ、感情。この感情の平板化。
このプロセスによって、ウォーホルのmachine-like という概念は成立しています
【今後の課題として】
(ミヒャエル・ハネケとの関連)
また、ウォーホルの現代性を示すものとして、ウォーホルの絵画を使用した、オーストリアの映画監督、ミヒャエル・ハネケの「ベニーズビデオ」という作品、この作品は「感情の氷河期」と監督自身が名づけているものですが、この作品におけるウォーホルの扱いについても研究していきます。
(美術史上の位置づけ)
第四章で、ウォーホルを美術史上に位置付ける試みを行いたいと思っています。
その歴史的位置づけとして、三つの流派から考えていきたいと思っています。
モダニズム、リアリズム、ミニマリズムの三つです。
モダニズムは、ウォーホルがそこに身を置いたアメリカで発展したもので、グリーンバーグの理論に基づき、ウォーホル登場の直前まで、隆盛を誇っていました。一般的に、モダニズムとウォーホルの間には、断絶があることが強調されますが、一概にそうとは言えません。
巨大な画面。絵画要素、つまりメディウムそのものへの還元、ジャクソン・ポロックに代表されるオールオーヴァー。そして、バーネット・ニューマンが確立した、冷たい抽象表現主義からの流れ。それをウォーホルは継いでいます。
ただ、ここについては、これからの研究課題です。
そして、リアリズム。ポップアートはイギリスのリアリズムの流れから生まれたものです。アメリカで生まれたものではありません。イギリスのリアリズムの流れから考えることは重要です。(これも研究課題です)
最後にミニマリズム。ウォーホルの手法は、明らかにミニマリズム的要素を含んでいます。これも、今後の研究課題です。
どうもご清聴、ありがとうございました。
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