2012/03/22

日記 (根源的ネガティヴィティ)

「根源的ネガティヴィティ」という言葉は、5年ほど前から、私のキーワードなのだけど、まだ解明されていない。

ただ、非常に魅力的な言葉で、自分の関心領域を、一言で表してくれていることには、ずっと、変わりはない。

映画「メランコリア」で、そこへの興味が再発。

再発というより、何度もそこに立ち戻っているような気がする。

抑鬱状態。つまり、世界、そして私自身の「全否定」。

そこに思想は「ない」。ただ、あるのは「否定」の衝動だけだ。

でも、あれこれ、「否定すること」に「理由」をつけようとする。
あたかも、その「理由」が「生きている意味」であるかのように。

しかし、突き詰めて考えると(実際は突き詰めて考えていないが)、鬱衝動に理由などない。

「全世界が滅びればいい」という衝動に、理由はない。

理由がないからこそ、実行しないのだが、それは別問題だ。実行するか、しないかは倫理の問題で、鬱衝動には(繰り返しになるが)、倫理はない。すなわち、(普遍的な)理由もない。

映画、メランコリアで描かれるのは、そういっった世界観(の肯定)だが、
この問題意識は、多くの芸術作品に共通する。

私が「ネガティヴィティ」(否定性)の前に、「根源的」と付けるのは、このネガティヴィティが、万人共通のものだと、信じているからだ。

芸術は私の関心分野なので、芸術に偏るが、ほかの分野でもそうかもしれない。
ただ、分からないことについて書くのはやめておく。

芸術においての、「根源的ネガティヴィティ」の重要性を強調したい。

すぐ思い浮かぶのは、井坂洋子の詩だ。彼女の「箱入豹」という詩集は、残念ながら現在、絶版だが、私は二冊持っている。あまりにも、私にとっての「理想の芸術」だからだ。

「箱入豹」ほど、「根源的ネガティヴィティ」に明確に射程を合わせた、正確な言葉のみで綴られた文章を、私は知らない。

ただ、これが絶版というのも、事実だ。(『現代詩手帳・井坂洋子全集 Ⅱ』には収められているが)

また、『メランコリア』が、カンヌにおいて、主演女優賞は獲得したものの、その他については無冠だったことも事実だ。

ちなみに、ラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、カンヌ映画祭で、パルムドールを受賞している。また、映画としても大ヒットしたことは、記憶に新しい。

同じ監督の作品でも、どうして、こうも世間の評価が違うのか。

それは、端的に言えば、『ダンサー〜』の場合は、「根源的ネガティヴィティ」に「理由」を付与しているからだ。

ラストシーンでは、主人公は死ぬが、それが息子ジーンへと引き継がれる、希望の証として描かれる。

ただ、このラストシーンについて、主人公演じるビョークと、監督トリアーとの間で、諍いに近いものがあったことを忘れてはならない。

ビョークはこの「主人公が死ぬ」というラストシーンに反対した。トリアーはこのラストシーンで押し切った。

ただ、その折半として、ラストに、「これは最後の歌ではない」という文章が付けられるという、あたかも妥協策のようなものが、付けられた。

そして、映画はヒットしたのである。おそらく、その妥協策が功を奏したのであろう。

鑑賞者は、「単純な絶望」を観る事を拒否し、そこに「理由付け」を求めた。
それは端的に「あまりに救いがないから」という言説に回収される。

しかし、トリアーは「救い」や「理由」など、本当は、最初から求めてはいない。
トリアー自身が、「ダンサー〜」の次の作品、「ドッグヴィル」のメイキング映像で明らかにしているように、鬱症状に苦しみ、抗鬱薬を服用しながら、撮影をすすめている。

『メランコリア』までのトリアーの作品は、必ず、鬱症状に「理由」を付けようとしていたように思える。

しかし、それは映画の低質化を招いていた。トリアーは『メランコリア』によって復活したように思える。鬱に「理由など無い」と気付いたのだ。

それは、端的な暴力として描かれる。暴力と言っても、最大に理不尽な形での。メランコリアで言えば、巨大惑星の地球への衝突である。

それによって、人類、および、地球は消滅する。

そして、映画内で、不必要なほど強調されるのは、「地球外生命体はいない」ということで、つまり、これは宇宙人を信じるとか信じないとかの話ではなく、
「全ての生命は滅びるべきだ」というメッセージである。
もし、地球滅亡を描いても、地球外生命体が存在すれば、それは生命が存続することであり、
トリアーにとっては、それは許し難いことなのである。

つまり、『メランコリア』においては、「巨大惑星の衝突」など、単に隠喩であり、端的に「世界を滅ぼす」という概念の到達点、つまり形而上学的な概念を、スクリーンに焼き付けただけである。

眠くなってきた。。この問題は大事なので、書いたら止まらないが、それだけ、書いても書いても、辿り着けない感もある。

また、書きます。

続く(?)

2012/03/13

メランコリア(映画評というより、自分の感性の偏りについて)

混乱しているので、ちょっと、落ち着くまで書きます。

どっから書けばいいのか。。
とりあえず、批評というジャンルに属そうとしている限り、自分の感受性、あるいは観点、立ち位置はある程度、客観的にみておきたい。

しかし!
それを揺るがす映画が...。
と書くと大げさですが、ラース・フォン・トリアー監督の"メランコリア"について、非常に混乱しております。
映画館を出た後、ずっと地下鉄の中で、この映画のラストシーンを思い浮かべながら、思い出し笑いをしていたのですが、こんなことめったにない。

映画を観た後、思い出し笑いが止まらなかったのは、2001年の鈴木清順監督"ピストルオペラ"以来です。
あの映画は、個人的に本当に大好きで、映画観で10回以上観たし、DVDで観たのと合わせると100回くらいは観てるんじゃないか。

それほど、面白かったのです。
そして、何が面白いのか、10年経った今も、正直、よく分かりません。

ただ、一つ言えることは、何かを批評したり観賞したりする上で、私にとって"ピストルオペラ"は絶対的な基準となっているということです。

唯一無比の映画、それがピストルオペラ。

ところが、今日、それに対抗する勢力が表れた。実質的に対抗しているかは分からない。
でも、「観終わった後」に自分に起きた現象が、そっくりすぎる。
つまり、思い出し笑いが止まらない。それも、なんというか、「お笑いを観て面白い」とかいうのとは、
少し違って、「あまりにも新しいもの」を観た時に、勝手に自分に起きる現象です。

付け加えると、この思い出し笑い現象は、以下の条件が加わります。
1.映画館ではほかの誰も笑っていない。
2,その映画はすぐに打ち切りになる。
3.友達に薦めてもなかなか面白さを理解してもらえなくて、もどかしい。
4.くだらなすぎて面白い、という感覚で笑っている。(深いとか、そういうのは全くない)

つまり、単純に「自分のツボ」に入っただけです。

ただ、ツボに入ることなんて、ほんとに滅多にない。それが10年ぶりに訪れた。大事件かもしれません。

簡単に言うと、絶対的映画だった"ピストルオペラ"。
それを観た後と、ほぼ同じ現象が、自分に起きた。それがメランコリア。

しかし、どうなんでしょうか。
ピストルオペラは、何回でも観たいと思うけど、メランコリアは一回観れば十分。
むしろ、もう観たくない。DVD出たら観てしまうと思うけど、そこまで執着はない。

じゃあ、関係ないか。。という気もしますが、そうでもない。
この2つの映画の間には、重要な共通点がある。

つまり、そこから、冒頭に書いた、自分の感受性を探る作業にもなり得る。
だから、考えなくてはいけない。

二つの映画の共通点とは、

1.深みがないこと。
・いい話だ~、みたいな要素はゼロ。ペラッペラに薄い。

2.何かのパロディ臭があること。
・ピストルオペラは何のパロディかもはや分からないほど、歌舞伎、アクション映画、現代アート(20世紀)からの引用だらけ。ただ、そのパロディのバランスが革命的に斬新。意志あるパロディとでもいうのでしょうか。素晴らしいです。
・メランコリアも、パロディっぽさがものすごい。とりあえず、「地球に惑星接近」というシチュエーションからして、ハリウッドの典型的なSFパニックものを踏襲している。
・あと、観てない(途中で寝た)ので近々観ますけど、惑星ソラリスのパロディという話も。そうなのか。観てみよう。
・フォン・トリアーの自作のパロディ感もある。特に、「18番ホールまでしかない」ゴルフ場で、これみよがしにはためく「19番と記された旗」。こういう、伏線的なのは、トリアーはもっと巧みに、隠してやるはず。なんか、こうあっけらかんとされると、トリアー自身の伏線好きの、さらなるパロディでは..と思ってしまう。というか、この話に、「伏線」は「無い」。分かり易すぎて、伏線になってない。そこが面白すぎる。

3.とにかく安っぽいこと。
・ピストルオペラにおける、三途の川のCG。。あれは..。
・メランコリアにおける、冒頭のストップ/スロー・モーション。あれは..。現代写真(ドイツ系)か、映像作品の、チープな(でも、クオリティ高い)パロディ..。
・メランコリアの小道具。ゴルフ場を走るカー(何ていうのだろう)で、逃げるシーン(笑)。さっきも書いた、「19番」の旗...(笑)。
・何より、冒頭と最後の、地球に惑星が衝突する時のあの、どうでもいいカット..。無駄にクオリティだけ高いけど、あれはなんなんだ..。最初にネタバレしてるし..。どういう時間軸...。

4.分かり易いこと。
・.これは「自分にとっては」という但し書きが必要かもしれませんが。。
・ピストルオペラは、どのシーンも「言葉で」解説できるほど、分かり易い。元ネタはすぐ分かるし、美の追求の仕方も、ごくごく単純。その単純さが最高。
・メランコリアも、これ以上ない位、分かり易い。単純に言えば「鬱病の人が作った、鬱病の人のための映画」。目的がはっきりしている。寸分のブレもない。もはや「トリアーがトリアーのために、自分が観たいから作った映画」。分かり易いので、安心して観ていられる。深いメッセージなど、どこにもない。もはや、メッセージを届ける気さえ全くない。

5.後味が清々しい。
・分かりやすく、見応えがあり、最後は馬鹿馬鹿しく終わる。素晴らしい...。

なんとなく、自分の「ツボ」が提示できたかと思います。
自分で書いてて、なるほど、と思いました。似てます。この2つの映画。

そして、ピストルオペラにはなく、メランコリアにはあるもの。
それは、明確な鑑賞者のターゲット。

断言してしまえば、これは、鬱気質のある人のための映画です。ほかの人々にとっては、ゴミです。
私は多少、鬱的な気質があるのでしょう。だから、楽しめた。
つまり、限定された対象にしか、届かない。あらかじめ、そう決められた映画だということです。
ターゲットが明確。

実は、ピストルオペラも、ターゲットは明確だと思うのですが、それはちょっと長い話、しかも、ものすごく複雑な話になるので、ここでは省きます。

とりあえず、メランコリアの、対象を限定する力。これは、すごい。

商業ベースでは考えられない内容です。観れば分かります。

多くの単館映画館が、メランコリアを上映しなかった理由。
それは、もちろん、3.11に対する配慮もあると思います。内容が内容ですし。
ただ、一番、大きいのは、対象がごく限られていること。
それは、ヒットするヒットしない、関係なく、良質な映画を上映する単館映画館でも、
メランコリアは「ダメ」だったということ。つまり、「ヒットしないかもしれないけど、良質な映画」ではなかったということです。つまり、内容が無いと判断された。
ラース・フォン・トリアーと言えば、世界の映画界でも巨匠ですから、上映がないなんて、普通はあり得ない。事実、これまで、渋谷の単館映画館は、トリアーの作品を必ず上映してきました。

でも、今回はしなかった。

その代わりに、シネコン、つまり大手の映画館が上映した。
パンフレットを見れば分かる通り、「地球滅亡」のSFものとして、解釈され上映されています。

しかし、鑑賞者も賢いので、これがいわゆるハリウッド系の「地球滅亡パニック映画」としては、
全く成立していないと分かって、足を運ばない。

シネコンは大失敗なわけです。「SFもの」として、それなりにヒットするだろうと思って、そう宣伝したが、そういうニーズには全く応えない映画なので、誰も来ない。

そして、アート寄りの人も、いつものフォン・トリアーとは「違う」宣伝のされ方をし、
早い話が、普段の情報源とは違う所で、違う仕方で宣伝されたので、すれ違ってしまう。

結局、誰にも見向きもされない映画となってしまったのです。たぶん。。

でも、これは、配給が悪いとか、映画館が悪いとかいう話ではありません。
今回に限っては、この映画、つまり”メランコリア”自身が悪いのです。そもそもヒットの可能性、ゼロの映画なのです。どの宣伝ベースに入っても、おそらく、ヒットはしなかったでしょう。

そういう内容なのです。

しかし!!

この映画は素晴らしいと、私は言わざるを得ません。

でも、こう言ってしまうことは、私の感覚が、どの人の感覚ともズレてしまっていることも、明らかにしなくてはなりません。

ピストルオペラがすぐ打ち切りになり、しかも、DVDも一年しないうちに廃盤になり、私は当時、憤りました。なんでこんなに素晴らしい映画がないがしろにされるんだ、と。

しかし、いまや、認めざるを得ません。メランコリアを一押ししてる時点で認めざるを得ません。

私の映画(というか、全てのカルチャー全般...現代アートも含みます..)の見方は、偏っています。
かなり、偏っています。それは、アート系映画愛好者とも、ほかの諸々のジャンルの映画愛好者とも、つまり、ほぼ全ての映画愛好者と、ズレています。

ピストルオペラと、メランコリアを肯定した時点で、そうなってしまうのです。

確かに、私は"白いリボン"(ミヒャエル・ハネケ監督)など、誰もが認める傑作にも心動かされます。そして、批評も書きます。考えもします。

でも、一番好きなのは、残念ながら、ピストルオペラであり、メランコリアなのです。

無念。。