2012/05/07

–何も指し示さない絵画- (発表レジュメ)



最近、ブログを更新していなかったので、罪悪感にかられ、更新します。
この前の発表で使ったレジュメそのまんまなので、本論より、読みやすいかも。。
内容は、今年の頭に提出した論文に、これからの課題を足した感じです。。

興味のある方は読んで下さい。




アンディ・ウォーホル何も指し示さない絵画-                             
2012.4.24 板垣達之

ウォーホルの特徴
非析的なこと
イメージを加工しない
加工したイメージを再構築しない
単一のモチーフを使用する

  非分析的
  絵画上での情報量の少なさ。
  モチーフを媒介としたメッセージの不在。(賛同も、批判も、批評もない)
  realistic(写実的)」。
  モチーフの選び方の基準とは。「僕はそれを毎日飲んでいたからだ」[1]
  「ウォーホルは社会批評として彼の芸術を生み出したわけではなかった」[2]。←たしかに、そうでなければ、「感動」はあり得ない。

イメージを加工しない
  「イメージ切り刻む=いわゆるコラージュの手法」を採らない。
  「写真」→「シルクスクリーン」。無媒介性の追究。
  「筆致を残さない/輪郭線のブレを残さない」=「メディウム/ジェスチュアの隠蔽」。(「抽象表現主義との対立項」「ポップアートの典型的手法」として、語られることが多い)
  抽象表現主義、伝統的「Realism(写実主義)」と相容れない。(抽象表現主義はメディウム/ジェスチュアを強調。Realismは、モチーフをコントロールする)

  イメージを再構築しない
  構築=「ある要素を、全体の一つの部分として捉え、部分を集積することで、全体を作り上げること」
  キャンベルスープが「部分」だと仮定した場合、何の「部分」なのか。描かれたモチーフが「部分」だとして、それに対する「全体」が見つからない。
  ウォーホルの絵画において、同一画面内で、「これが主役で、これが脇役」という、画面内での「優劣」が見当たらない。
  オールオーヴァー=画面がモチーフで埋め尽くされ、どれが主役かが、曖昧もしくは不明である。(ex.〈コカコーラの瓶〉(1962))。
  cf.ポロックの「オールオーヴァ―」は絵画の自律性の行き着くところ。絶対的抽象。
  〈キャンベルスープ〉に於いては、背景が、恣意的に白く塗りつぶされている。

  無意味なものの強調(バルト)。←強調すらしていない。絵画上の全てはフラット。
  本来、対象(モチーフ、オブジェ)つまり「図」、に対する「脇役」であるはずの「地」が、対象と同等の存在価値を示している。

  「部分」と「全体」、「図」と「地」という概念そのものがない。
  cf.ハミルトンの〈何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力的にしているのか〉での、部屋という「全体」がありその中に「部分」として人物や家電製品などが散りばめられるという手法とは、非常に対照的。

 ☆ウォーホルの芸術では、「部分は、全体に隷属する」という概念がない。
   それはつまり、画面内に「ヒエラルキー」がないことを意味する。言い換えれば、ウォーホルの絵画内では、「物事の優劣」が存在しない。

  cf.ウォーホルの発言。「物事の優劣」を否定する数多くの発言。
「僕は美しくない人に会ったことがない」[3]
「みんながみんなを好きになるべきだと思う」[4]
「どの画家もみんな素晴らしい」[5]

(ウォーホルが作り出したポップという世界は、平等性とも言い換えられる世界観に支配されている)
(ウォーホル自身が熱心なカトリック信者であったこととの関連・・・)
 

 〈モダニズムとの関連〉

  ウォーホルのRealism(写実主義)でありながら、明確な意味を成さない絵画には、明確な歴史性がある。
  イギリスのポップアートからの影響/アメリカ絵画史/との関連。

  「ポップアート」が登場する以前のグリーンバーグを代表とする、モダニズム。
   グリーンバーグ=“絵画が絵画として自立する[6]/何にも依存しない絵画
   この概念は、ウォーホルと繋がりを持つ。(何にも依存しないとは、外部への意味作用の排除とも言い換えられる)

   無論、ウォーホルとグリーンバーグ的モダニズムを隔てる壁は厚い。
   ウォーホルの絵画は、常に具象絵画であり、言わばRealism(写実主義)の絵画である。
   これは、グリーンバーグの思想と対立する。
  では、ウォーホルはキャンベルスープなどの具体的なものを描いたからといって、反グリーンバーグ的なのか。
  「外への意味作用の排除=絵画の自立性」は保守されている。
  具象物(モチーフ)を描いても、何かを指し示してしまうことにはならない。
  ウォーホルでは、具象物を描きながらも、外部に依存していない。
  グリーンバーグのモダニズムを継承しながらも、Realism(写実主義)の伝統を汲む。
  これがウォーホルの明確なオリジナリティ。

  つまり、ウォーホルは「モダニズム芸術」の、意味性の排除という遺産を「具象絵画」において、再起させた=ポップアートの発祥。


単一のモチーフしか使用しない

  「何も手を加えない」のではなく、画面内の「関係性の排除」を行なっている。
  単一のモチーフを複数、並べる。ex.<エルヴィス>(1963)
  シルクスクリーン=インクの量の違いや、手作業ゆえに刷る力加減が毎回違うことによって、微妙な差異を持ったエルヴィスが刷られる。
  しかし、画面上の複数のエルヴィスどうしの関係性は知覚されない。
  鑑賞者は、「同じ柄のプリントが複数ある」ということは認識する。
  プリントの微妙な差異を感知しない。気付いても、そこに特に着目しない。

☆ ウォーホルの絵画は、関係性を感知できない仕組みになっている。

  「同一のイメージの連続」
  「わずかな色の違いしかないイメージの連続」

〈比較の問題〉
  比較することが困難な状態。
  画面上に描かれているエルヴィスどうしを、鑑賞者が比較できない仕組み。

<「比較できない」条件>

  「比較ができ、その関係性も感知できる場面」。
  まず、「類似性」が必要。(似ているものは、目につく)
  「類似性」がまずあり、そこから、異なる点、つまり、「相違点」が目につく
   
 <シルクスクリーン(機械的手法)>
  機械的手法で生産されたもの=機能性で判断する。

  ウォーホルの絵画の内部で起きていること=「比較不可能」という状態
  根源的な差異がそこには見当たらない。

<比較できない条件>
 根源的相違点が「ない」こと。
 感知され得る、類似性が「ない」こと。
 類似性の次に知覚される、相違点が「ない」こと

  =機械的手法
  類似性の洪水
  (「あのキャンベルスープと、このキャンベルスープ似てない?」と、100個のキャンベルスープを眼の前にして、言う人は誰も居ない。似ていることが、あまりにも自明すぎる。)
  似すぎていて、似ていると言う必要もないし、考えることすらない。

比較の条件=感知される得る類似性が「ない」こと。その条件はさらに二通りに分けられる
 
 違いすぎいて、類似点が発見できない場合
 類似性という発想が奪われる場合
 
ウォーホルの絵画上=②の現象。

  ささいな差異が感知できなくなっている。
  ウォーホルが取り上げるのは、スターや、誰もが知っている製品

  「同じ、エルヴィスというイメージ」を共有。
  ウォーホルは、誤認の可能性が完璧に無いモチーフのみ扱う
  鑑賞者は誰もが瞬時にそれと身元確認(identify)する

  全て根源的に同じ。

  「たくさんある」という思考状態に落とし込む。
  「似ている似ていない」という知覚が生じない。
  「比較」という発想自体を、鑑賞者の側に生み出させない。

  この思考状態=鑑賞者に対する最大の効果。

  ウォーホルの絵画においては「比較」できる条件
 根源的に違う
 類似性がある(類似性を感知する)
 相違点がある(相違点を感知する)

  これら三つが、どれも当てはまらない。
  ウォーホルの絵画には、「比較」という概念を遠ざける作用がある。
  意味作用を無化する作用がある。


[コードのない絵画]

<「作品自体」が外的意味作用から逃れる条件>

 ①何も指し示さないこと。
 ②何にも指し示されないこと。
  は不可能である。「これは芸術だ」と誰かが言った瞬間に、その言説により指し示される。
  =「何も意味しない絵画」は可能であろうか。

〈表現〉
表現は二つの性質を備えていなかればならない。一つは、情報の内容を表していること。もう一つは、相手によって知覚されうることである[7]

(記号)
シニフィエ/シニフィアン [8]
 
〈文法〉
文法とは、ある一つの言語で、語と語をどのように結びつけて文を作るか、ということよりも、社会習慣として決まっているもの[9]

〈言語による表現の定義〉
伝達したいと思う内容に見合う適当な語を選び、それを「文法」の規定に従うような形で結合して文をつくる[10]

  美術作品では、基本的には「表現」は「伝達」を前提としている。
  「何か」を表現するために作品→理解されて初めて「作品」として成り立つ。
  その根底を崩す→ウォーホル(cf.デュシャン)
  何かが示された瞬間、たとえ直ぐにシニフィエが見つからなくとも、視線はそれを芸術と捉える。
  芸術だと視線が判断した瞬間から、何かしら「伝達」されるものがあると思って、作品(表現)を観る。
  しかし、何も「伝達」されない。

  * デュシャンの便器(作品タイトル「泉」(1917))について
   確かに、芸術作品においては、普通、所記がある」[11]しかし、「何も伝達」されない。
   シニフィアンとしては、完璧。しかし、シニフィエが不明。
   「芸術的内容」が分からない。
   芸術的な「文脈」におけるシニフィエの不在に対する怒り。

〈ウォーホルのトリックとの類似性〉

<キャンベルスープ>
  シニフィアンとしては、完璧。表現としては、キャンベルスープが描いてあると、すぐさま感知できる。しかし、シニフェエ(記号内容)がない。
   <キャンベルスープ>のシニフィエは、「大量生産社会の賛美」でも「キャンベルスープはおいしい」でもない。「複製技術の時代の到来の表現」でもない(ただ、そのような解釈を否定するつもりはない)
   鑑賞者に芸術的文脈で「伝達」したいシニフィエなど、初めから無い。

もしアンディ・ウォーホルのすべてを知りたいのならば、私の絵と映画と私の表面だけを見てくれれば、そこに私はいます。裏側には何もありません。(Warhol 1977

   この言葉は、あまりにシンプルなので、額面通りに受け取れないことも確か。
   しかし、純粋にこの言葉を、受け取ることができるのではないか。
   ウォーホルは、「僕の作品を自由に観て、それぞれ、ひとりひとりのそれぞれの意味を見出してくれ」と言っているのではない。「表面を見ろ」と言っているのみ。
 
  芸術界のルールにおいて、「表面を見ろ」=「表面から、何か意味を読み取れ」という意味に誤読される可能性はある。
  しかし、ウォーホルは「見ろ」と言っている。「意味を読み取れ」とは言っていない。つまり、ウォーホルの発言はこう解釈すべきではないだろうか。
  「この作品は、単にシニフィアンです。シニフィエは存在しません」と。

  誤解を続ける鑑賞者は「どこかにシニフィエがあるはずだ」と詮索する。
  これには、ウォーホル自身が仕掛けたトリックという側面もある。鑑賞者の思い込みに対する、挑発。
  「ダダイズム」とウォーホルは、共通して、シニフィアンだけが自立して存在する作品を創ろうと模索していた。
  バルトの言葉では、「所記を、したがって、記号を廃絶しようとした。しかし、能記(シニフイアン)は存続する」[12]状態、つまりシニフィアンのみが在る状態。

[ウォーホルの逸脱]

詩人は日常的なことばの「決まり」をしばしば逸脱する形で表現を行なう。日常を超える新しい意味の創造のために、日常のことばの枠を破ることが必要だからである。したがって、読者が日常のことばの枠の中にとどまっている限りは、十分に意味が読みとれないということになる[13]

   多くの現代美術の作品は、今日でも、現代美術の文法(context)を知らないと、理解不可能な可能性が高い。
  しかし、ウォーホルの場合はそうではない。現代美術の文法を知れば、ウォーホルの作品は感動を呼ぶものになる、というものではない。
  (アーサー・ダントゥはウォーホルの理解不能性という特質を無視している)

 〈三重の逸脱〉

複雑なのは、ウォーホルの逸脱の仕方は、「三重に逸脱している」ことである。

①「美術の歴史からの逸脱」
②「一般大衆からの逸脱」
 ex.なぜ、これが芸術なのか。
③「絵画にコードがない」という、大きな「表現の基本からの逸脱」


①(=美術の歴史からの逸脱)
②(=一般大衆からの逸脱)
「ポップアート」と命名され、認知されることで、一応、美術界からも一般大衆からも、逸脱をまぬがれる形には成った。

③(=コードが表現の中に存在しないこと)
ウォーホルの「謎」は、この三重の逸脱に起因する。三つ目の逸脱が、その「謎」に於いては、最も重要

  (①と②(=美術界と大衆社会、両方からの逸脱)が、あまりに明白で分かりやすいので、そこからウォーホルを捉えようとする向きも多く見られるが(別に私はそれを否定するわけではない)、それは「謎」の本質とは、あまり関係ないことを、ここで主張せねばならない。それなら、リキテンスタインも「謎」であるはずだが、そうとは見えない。)
  「謎」の本質は、「コードの不在」=理解不能性
  「脱コード性」を持った存在

〈近似的なモチーフゆえの、コードと文法の破壊〉

日常的なコミュニケーションは常に「近似的」なものであり、日常的な場合であるからこそ、近似的な一致で一応すんでいるわけである(池上他 1997)

  ウォーホルの絵画においては、近似的だからといって、作品と鑑賞者の間で、距離が縮まることはない。むしろ、近似性ゆえに、距離が遠のく。
   ウォーホルは「あの~」と呼べるものしか、モチーフとして扱わない。(ex.「あの」マリリン、「あの」エルヴィス、あの「事件」)
  キャンベルスープについて、鑑賞者と作者、お互いが参照すべき、暗黙の了解。無論、作者も、鑑賞者も、お互い、キャンベルスープは「よく知っている」。
  しかし、それは何も引き起こさない。
  ウォーホルはキャンバスにそれを描いた。鑑賞者はそれを観た。お互いの接点はここで終了してしまう。
  「新たなコード」で作者と鑑賞者は結ばれる=通常の絵画を通しての、作者と鑑賞者の関係
  スーパーマーケットで見るイメージそのままで描いている=鑑賞者は何も発見しない。キャンベルスープに対する感情も「変化しない」。
  鑑賞者と作者を繋ぐ「新しいコード」が無い。
  ウォーホルにおいて、「近似性」は、コミュニケーションの成立を手助けしない。むしろ、コミュニケーションの断絶がより深くなる。

(普通、「よくよく知っている」ものに関しては、「それ以上の情報」が欲しくなる。「知らない情報」が無くては、何も新しく得るものが無い。もう「知っている」ので、新たな「発見」が欲しい)
  ウォーホルは、「それ以上の情報」を与えない。「そのまま」の情報しか与えない。
  (ウォーホルがポップアートの代表的な作家ではないことが、ここでよく分かる。ポップアートは、近似的なものを取り上げ、芸術をより理解しやすいものにする。しかし、ウォーホルは逆で、より理解しにくいものにする。)

   ウォーホルの絵画は、モチーフが日常生活に近似的であるにも関わらず、いや、日常生活に近似的であるがゆえに、コミュニケーションに必要な条件を全て満たしていない。よって、ウォーホルの絵画と鑑賞者の間には深い断絶がある。コミュニケーションは成立しない。









〈参考文献〉

Crone,Reiner (1989)“Andy Warhol”.NewYork:HarryN.Abrams,
Danto,Arthor.”Who Was Andy Warhol?”Artnews,86 (May 1987),pp.128-32
Danto,Arthor (2009)“Andy Warhol”Yale University Press
Glaser,Bruce“Oldenburg,Lichtenstein,Warhol:ADiscussion”Artforum(Feb.1966)pp.20-24
Klaus Honnef, (2004), Pop Art, Taschen America Llc
Lippard,Lucy R.(ed.) (1966) Pop Art, New York: Praeger,
Ratcliff,Carter (1983), Andy Warhol , Abbeville Press
Swenson,G.R. (1963) "What is Pop Art? ",ArtNews, November
Taylor,Poul.”Andy Warhol:The Last Intervew,”Flash Art (International Edition),133(April 1987),pp.40-44
Warhol,Andy (1977), The Philosophy of Andy Warhol (From A to B And Back Again) , Mariner Books
Warhol,Andy and Pat Hackett, (1980), POPism TheWarholSixties , Penguin Books
Warhol,AndyMikeWrenn, (1991), Andy Warhol: In His Own Words (In their own words) ,Omnibus Pr.
アーサー・C. ダントウ 他 (1997) 『アンディ・ウォーホル全版画―カタログ・レゾネ 19621987』 美術出版社
グリーンバーグ,C (藤枝晃雄編訳) (2005)『グリーンバーグ批評選集』勁草書房
バルト,R. (沢崎浩平訳) (1986) 『美術論集』 みすず書房
ボードリヤール,J (塚原史訳) (2011) 『芸術の陰謀消費社会と現代アート』 NTT出版
マクシャイン,K. (1990) 『ウォーホル画集』 リブロポート
リパード,L. (宮川淳訳) (1967) 『ポップ・アート』 紀伊国屋書店
池上嘉彦 山中桂一 唐須教光 (1994) 『文化記号論 ことばのコードと文化のコード』 講談社
日向あき子 (1995) 『ポップ・マニエリスム』 冲績社

DVD 『アンディ・ウォーホルザ・コンプリート・ピクチャー』 (2004) コロムビアミュージックエンタテインメント



[1]Swenson,G.R. (1963) "What is Pop Art? Answers from 8 Painters",ArtNews,November,p.26
[2]Carter Ratcliff (1983), Andy Warhol , Abbeville Press, p.28
[3]Andy Warhol (1977), The Philosophy of Andy Warhol (From A to B And Back Again) , A Harvest Book Harcourt, Inc. p.61
[4]Swenson,G.R. Ibid., p26
[5]Ibid.,
[6]参照クレメント・グリーンバーグ (藤枝晃雄編訳)(2005)『グリーンバーグ批評選集』勁草書房
[7]同上
[8]同上
[9]同上
[10]同上
[11]同上 p.151
[12] 同上 p.148
[13]池上嘉彦 他 (1994)