2012/07/28

ウォーホルに於ける“machine-like”の意味


《ウォーホルに於ける“machine-like”の意味》

キーワード: 生成 痕跡 指標記号


1.     ウォーホルのインタビューから

引用元(強調部分、矢印部分:発表者)
Interviews by G.R.Swenson, “What is Pop Art?”, Artnews, November, 1963, p.26


「誰もが機械であるべきだと私は思う。」
(I think everybody should be machine) l.9

「誰もが誰もを好きであるべきだと私は思う。」
(I think everybody should like everybody) l.10

→全ての人が、誰もが(「何か」を根拠に)同じであるようになるべき。

(インタビュアー)「それが、ポップアートに関する全てですか?」
(Is that what Pop Art is all about?) l.11

「はい。(ポップアートは)物事を好きでいる」
(Yes. It’s liking things) l.12

→物事「自体」を好きになること。

(インタビュアー)「そうすると、物事を好きでいることが、機械であるようなことなのですか?
(And liking things is like being the machine?) l.13

はい。なぜなら、私たちは常に同じことしている。私たちは何度も繰り返して(同じことを)しているのです。」
(Yes, because you do the same thing every time. You do it over and over again.) l.15

誰もが常にクリエイティヴ(創造的)である
(Everybody’s always being creative) l.20

→誰もが何かを絶えず「生成」している。

「どうして、あるスタイルが、ほかのスタイルより、より良いなどと言えるのか?」
(How can you say one style is better than another?) l.28-29

→手法(スタイル)そのものは問題ではない。「それ以前」、つまり「生成の段階」が問題である。

「もし、より多くの人々がシルクスクリーンを使うようになり、誰も私の絵とほかの誰かの絵の区別ができなくなったら、素晴らしいと私は思う。」
(I think it would be so great if more people took up silk screens so that no one would know whether my picture was mine or somebody else’s.)  l.54-56

→「生成の結果」としての作品は個別に判断されるべきではない。

「私がこのような方法で絵を描く理由は、私は機械になりたいからである。そして、私がすること全て、機械のようにすること全てが、私がしたいことだと感じる。」
(The reason I’m painting this way is that I want to be a machine, and I feel that whatever I do and do machine-like is what I want to do.) l.60-62


「私はかつて、創作しなければならなかったが、今はそうする必要はない。」
(I’d have to invent and now I don’t) l.67-68
 *注 広告業界で働いていた時代を振り返っての発言

→広告業界では創作(invent)する必要があったが、純粋芸術(ファインアート)では創作は必要ではない。


→”invent”=ゼロから何かを創りだす。(ウォーホルのファインアートは、既にあるものを使用し作品を生み出す(create))。"invent"と"create" のウォーホルの使い分け。


「彼ら(広告業界の雇い主)は何が欲しいか正確に理解していて、彼らは主張もした。時には彼らは非常に感情的になった。」
(they knew what they wanted, they insisited; sometimes they got very emotional.) l.71-72
→広告業界では「目的(what they want)」がはっきりしている。そして、感情(emotion)が存在する。

「商業芸術に於いては、作る過程は、機械のようだった。しかし、その姿勢には感情があった。」
(The process of doing work in commercial art was machine-like, but the attitude had feeling to it.)

 →純粋芸術(ファインアート)に於いては創作(invent)も感情(feeling)も必要ではない。



2.指標記号について

 記号分類の三種

1.     類像/類像的記号 (Icon/iconic)
  
2.     指標/指標的記号 (Index/indexial)

3.     象徴/象徴的記号(Symbol/symbolic)

*****
1.     類像記号の例
肖像画、風刺画、縮尺モデル、隠喩、物真似

2.     指標記号の例
自然記号(煙、雷、足跡)、医学的な徴候(痛み、発疹)、測定機器(風見鶏、温度計、時計)、信号’(ドアのノック、電話のベルの音)、指示器(人差し指、方向を指示する道標)、記録写真

3.     象徴記号の例
言語一般、数、モールス信号、交通信号、国旗

   ******
1.     類像記号の特徴
記号表現は、記号内容に似ているか、意味されているものを模倣しており、そのものが持つある性質を同じように保持していると認められる様態

2.     指標記号の特徴
記号表現は、恣意的でなく、ある方法(物理的かまたは因果関係で)で記号内容と直接的に結ばれている様態その結びつきは観察できるか推測できる

3.     象徴記号の特徴
記号表現は、記号内容に似ていず、原則的に恣意的であり、純粋に慣習的でありその関係は学習されなければならない様態(mode)

 (実際の記号は、これら3種類の記号が複合化したもの)

引用元:Daniel Chandler, Semiotics for Beginners (on line),University of Wales, 1995, 田沼正也 (http://www.wind.sannet.ne.jp/masa-t/kigou/kigou.html)



3.痕跡

ポップアートは、常に、直接的である。遠回しではない。比喩もない。
そして、視覚的にヴィヴィッドであり、色彩的にも目に「すぐに」飛び込んでくる。

それは、こう言い換えられる。絵の具なら絵の具(ウォーホルは混色をせず、缶に入ったアクリル絵の具をそのまま使用する)そのものの、名残、痕跡がはっきりしている。どの絵の具を使ったのか、はっきり分かる。手法は全て、オープンである。ここでは痕跡に対する強調が見られる。

痕跡をあえて、残すこと。それはある意味で稚拙さへの欲求である。稚拙さとは、巧みな技術の正反対である。

ポップアートは「巧みな技術」の使用を禁ずる。

なぜか?

それは、「巧みな技術」とは、「事物そのもの」が持つ、直接性、痕跡、兆候などを消してしまうものだからである。
「事物そのもの」の類像、指標でなければならず、同時にそれを写し取った痕跡を明らかにしなければならないのが、ポップアートの原則である。

  ウォーホルが特徴的に扱う「写真」が持つ性質とは類像的(icon/iconic)であり、指標的(Index/indexial)。少なくとも象徴的ではない。
  痕跡の作品例=《ピス・ペインティング》(1977),《撃たれたマリリン》(1964)

《マリリン》(1962),《エルヴィス》(1963)などにおいては、
象徴的記号(バックグラウンドが必要な記号)=メディアの世界における有名人を、
指標的記号(バックグラウンドが不要な記号、直接性へと還元(reduction)する。
もしくは、類像的なもの(肖像画)へと、さらに第一次段階へと還元(reduction)する。

結果として現れる作品は、手法としては、指標的であり、結果としては、指標的/類像的である。

《スクリーンテスト》《エンパイア》(1964)は、直接性という意味で指標的。(無論、類像的も含む)

指標性への希求。痕跡への希求。

ウォーホルが惹かれていたのは、この世界の裏側に潜む、指標性。
そして、古き良き類像性。

徹底的な、象徴性からの逃避。(創作(invent)することの回避)

抽象表現主義的な初期作品から、ハードエッジな作品へ。
感情的(emotional)なものを取り除き、純粋に類像的、指標的なものへ。
手描きの《キャンベルスープ》(1962)から、シルクスクリーンの《キャンベルスープ》へ。
類像的(肖像画的な類比性)から、指標的なもの(物理的つながりを持つ痕跡)へ。

《惨劇シリーズ》(1963)
象徴的=かわいそう、おそろしい、ことを示す。言語的なもの。
から、
指標性=ただ、そこにあった痕跡(記録写真)。非言語的なものへ。
「恐ろしいものも、繰り返し見ていると、感覚がなくなっていく」(ウォーホル)


4.生成

事物、もしくは人物を示し、それそのものが持つ「生成」に焦点を当てることが、ウォーホルに於いて最も重要。
《スクリーンテスト》において、写された者は、何かを「生成」することを迫られる。いや、正確に言えば、何か「慣習的なもの(象徴記号)」になることを迫られる。そうでなければ、「何ものでもない」状態になってしまうからだ。人間は、通常、そのような状態に耐えられない。

しかし、《スクリーンテスト》の重要な点は、そこに依存するストーリー(人物の象徴記号化)もなく、撮影者は不在であり(他者とのやり取りを通しての、象徴記号化)、「その人物そのもの」でしかいられなくなっていることである。

そこに、自らを象徴記号に投ずるきっかけはなく、言わば、宙づり状態でいるしかない。そこにこそ、「生成」がまざまざと見せつけられる。いや、「生成の過程」がまざまざと見せつけられる。もしくは、「生成の過程の失敗」さえもが、映し出される。
つまり、象徴記号で満たされた世界の外に出れば、人間とは、常に生成の過程の状態である。《スクリーンテスト》を通して、そうウォーホルは言っているのではないだろうか。

事物そのものとは、本来、常に生成し続ける存在であり、ウォーホルはそこに事物そのものの美しさ、美を発見するのである。


5.ウォーホルの芸術性

主題として、バックグラウンドを必要とする、象徴的なものを選ぶ。
顕著なのは、《ジャッキー》(1964)。あらゆる、「言説」が可能なもの。
惨劇シリーズにおける、《電気椅子》(1963)。あらゆる、感情(feeling)の共起が可能なもの。つまり、象徴記号的なもの。
しかし、それを指標化(インデックス化)することで、
言語、感情をなくす。
なぜ?

ウォーホルにとって、絵画とはそうであるから。芸術とはそうであるから。

「私の作品には、教示的(instructive)な要素は全くない」(ウォーホル)

自殺したファクトリーの友人の話を聞いた時、ウォーホルは「ああ、それを撮影しておけばよかった。」と言った。
その発言は、多くの反感を買った。しかし、それはウォーホルの、共感、または、「単なる事実」以上のものをそこに求めることに対する拒否である。同情、追悼 etc.

ウォーホルは「単なる事実」として、その痕跡のみを求めた。指標のみを求めた。
これは、パフォーマティブというより、ウォーホルの芸術家としての自然な反応。

そして、これは、最終的に「死」とどう向き合うか。に帰着する。
情緒を排し、死を、象徴的(言語的、情緒的、感情的(emotional))ではなく、指標的(単なる事実、単に人の痕跡)とすること。

【ウォーホルにとっての、有名になる事と芸術との関係】
慣習化の度合いが高いところ=現代美術の文脈など、そこで、慣習化の度合いが低いこと(指標的)なことをするから、それが逆説的に芸術になる。

あるシステムの中(慣習度が高いところ)でやるから、そこに注意が集まり、価値が生まれる。
システム外(慣習度の低いところ)で行なっても、それは単に「売れない」だけであり、それは最もウォーホルが回避したがった状況である。
「有名になる」=「高度に慣習化した世界に参入する」ことは、必要条件なのである。
十分条件ではないが。
必要十分条件とは、「高度に慣習化された世界」に参入し、「慣習化されていない状態のもの」を作ること。「慣習化されていない状態のもの」とは、象徴記号でなく、指標記号、類像記号である。

6.”machine-like”とは

機械は「生成」する。生成を繰り返す。そして、「機械によって作られた」という「痕跡」を明確に残す(「巧みな技術」によって隠さない)。
象徴記号のあふれた世界において、指標記号、類像記号の復権。
ウォーホルは、それら全てを”machine-like”と呼んでいるのではないだろうか


【参考文献】
ロザリンド・クラウス『オリジナリティと反復』小西信之訳,リブロポート,1994