2013/05/07

ニューヨーク雑記

ニューヨークという街は、確かに特殊だが、ローカリティと無縁な訳ではない。
むしろ、ニューヨーク・ローカルなものというのがあり、その中に、国際色だったり人種のるつぼだったり、マンハッタンの碁盤の目に整備された都市計画だったりがある。

なにより、NYの歴史の浅さというのは、行ってみて痛感したが、ひしひしと伝わってくる。そこかしこで工事をしているのだが、その光景が尋常ではない。一つのビルをどけたら、そこから荒涼とした大地が顔を見せる。「層」がないのである。

ひとつ剥がしたら、むき出しの生の土地が姿を見せる。あるべきはずの歴史や、時間はその間に層として存在せず、タイムスリップしたように、我々は原始を街中で目撃するのだ。

それはある種衝撃的な体験であり、逆にNYにとっては当たり前の光景である。

17世紀以降、つまりオランダ人が入植してきてから、マンハッタンの歴史は始まる。逆に言えば、それまで、つまりプレ・コロンブスの時代には、荒涼とした大地がそこにあり続け、「ヨーロッパ的なもの」は何もなかったのだ。

あらゆる作業、都市計画、運河の建設が、人工的に行われ、人工的にマンハッタンは「都市」となった。そこにはたいした理由などない。ただ、マンハッタンが使い勝手の良い天然港で、商売に適していたからだけの話だ。何も高尚な理由はない。その即物性は、今もなおマンハッタンの独自性として、生き生きと感じとれる。

その都市で、アートという高尚なものが、なぜ発達したのか。そして、今やアートの世界の中心はNYであると言われるまでになったのか。

つくづく、着いた頃は疑問であった。そこには豊かな歴史もなければ、壮大な風景もなく、ただ金が動いているのみであったからである。

しかし、その秘密は二三日とギャラリーを渡り歩いているうちに、明確になってきた。

金が動いているから、アートがあるのである。アートが取引される場、それがマンハッタンなのである。

そして、「アートが取引される場」を支える、あらゆるものがNYには揃っている。
ギャラリーだけでも、大手ギャラリー、中堅ギャラリー、小規模ギャラリー、それぞれ取り扱う品もそれぞれである。
アーティストも、多くはNYに在住しているが、アーティストの卵たちは、NYでもマンハッタンではなく、電車で10分ほどのブルックリンに大きなアパートを借りて集団で住んでいたりする。マンハッタンにも、多くのアーティストのスタジオがあるアパートがある。
彼らは独自のコミュニティを持ち、出自は違えど、アーティストという職業を夢見て、異国もしくはアメリカの地方から出て来ている。
そして、彼らの行動範囲は極めて狭く、マンハッタンかその周辺で、だいたい全てのことが済まされてしまう。

簡単に言うと便利なのである。

アートを行う上で、便利な場所。それがNYであり、それ以上でもそれ以下でもない。

そして、プロ・サッカークラブには、優秀な下部組織があるように、全てが重層的に構築されている。
チェルシーのギャラリーは、洗練されたものが多いが、ブルックリンのものは洗練されているとは言えない。ただ、ブルックリンには、チェルシーにはない型にはまらない自由さがまだ存在し、それはそれで面白い場所である。
ブルックリンのスタジオでの展示を見せてもらったが、自分がいる多摩美の学生展示と、何らレベル的にも変わらない。おそらく、ブルックリンにいるアーティスト達の、ほんのごく一部しか、職業としてのアーティストを続けることはできず、泡のように消えていくのだろうな、と感じざるを得なかった。まるで、日本の美大のようだな、と思ったのを覚えている。NYに住んだからといって、それが成功を保証する訳ではない。そこで勝ち残らなければならない。
勝ち残ったわずかな人が、チェルシーやロワーイーストのギャラリーで展示することができる。さらに、そのごくごくわずかな人が、MoMaやグッゲンハイムやNew Museum で展示できるのだろう。

ただ、ブルックリンいるアーティストの多くは非常に社交的で、親しみやすい。色々と作品について説明してくれるし、展示なども紹介してくれる。弱者ゆえの、と言ったら失礼だろうが、コネクションを大切にし、お互い補い合って生活していく共同体的生活と、共同体的性格がそこには見受けられる。

日本をふと思い返して見れば、その空気はブルックリンのそれによく似ている。批評はそこには存在せず、自由に何かを創造する喜びが生き生きと溢れている。しかし、その先に未来は約束されてはいない。刹那的とも言える、そのコミュニティが持つ底抜けの明るさは、重厚で洗練されたチャルシーとはほど良い対比を成す。

だが、よく考えれば日本にはチェルシーに当たるものがない。つまり、下部組織は在っても、上部の洗練された組織はないのである。下部組織だけの国。それがアートにおける日本の立ち位置なのかもしれない。

これは別に日本を批判しているわけではない。ブルックリン対チェルシー(マンハッタン)のような構造がアートに必要かどうかは、私には分からない。少なくとも、NYはそのような構造を持ち、それによってアート・シーンが機能しているというだけだ。
ただ、機能するには、このような重層的構造が必要なのは確かである。

機能したいか、どうか。これは、日本のアート・シーンの重要な命題である。私はかねがね思っているのだが、日本のアート・シーンは「機能」したくないのではないか、と考えている。あえて、機能しないのだ。だから、構造も作らない。何か、機能の前提となる、組織階層や構造を持つのを、あえて避けているように感じられる。それがなにかしらの日本の風土と、無意識的にしろ、結びついているような気がしてならない。


だから、単純に日本とNYでどちらが良いとか悪いとか言うつもりは全くない。それぞれのローカリティがあり、簡単に言えることではない。

NYに話を戻そう。

NYの街で、最も特徴的なのはその色彩である。レンガと土の茶色。ほとんどがその色彩に覆われている。

ロバート・ラウシャンバーグやジャスパー・ジョーンズ、ジャクソン・ポロックらは、なぜ共通して茶褐色を好んで用いるのだろうと、私は日本で画集をみるたびに疑問に思っていたのだが、NYに着いた瞬間、その謎は解けた。場所がその色をしている。ただ、それだけであった。

同様のことが、ほかのアーティストにも言える。リチャード・セラの素晴らしい展示がチャルシーのDavid Zwirnerギャラリーで大々的に開かれていたが
(参照:http://www.nytimes.com/2013/04/19/arts/design/richard-serra-early-work-at-david-zwirner.html)、
セラの色彩、そして素材である鉄は、まさにその土地で採れたもの。つまり、NYのローカルな性質から由来している。その土地で採れた野菜のようなものである。

そして、スケール感。NYのほとんどのギャラリーが、ほぼ同じスケール感に基づいて展示をしている。これは驚くべきことである。
しかし、それは事実である。NY独自のスケール感というものがあるのだ。
セラにしろ、「巨大」と言われる作品も、NYのスケールに従ったものに過ぎない。とにかく、チェルシーのギャラリーは天井が高く、スペースに対する感覚は日本の感覚とは全く違う。
そこにある作品も、ギャラリーのスペースに呼応するように、独自のスケールで創られている。これは、NYで展示しているアーティストでないと分からない感覚だろう。その土地独自のスケール感というものがあり、それは土地によって全然違うのだ。
また、日本のスケール感が小さいから劣るとかそういう話でもない。単純に「全然違う」のだ。

日本の美術批評の一部は、NYのスケール感を世界基準とし、それを理解できない日本人を劣っているかのように認識しているような気もするが、それは全く間違っている。
例えば、セラの彫刻を、そのまま日本の美術館やギャラリーで展示したところで、その良さは正確に日本人に伝わるはずはない。セラはNY(もしくはアメリカ)独自のスケール感に影響され、それに忠実に作品を創っているだけで、受け取る側もNYのスケール感を無意識の内に身につけているから、身体的に理解できる。
しかし、日本に生まれ育ち、日本のスケール感を会得している者は、セラのスケール感を容易に理解はできないだろう。それで当然だし、それに何か問題がある訳でもない。

その場所固有のスケール感があり、それが思想、思考にも影響を及ぼす。それは、アートでなくとも、物事の認識の仕方に直結する。ただ、それだけのことである。

一種の英才教育のように、欧米のアートを理解することが教養のように、日本で思われているとしたら、それはスケールに対する誤解だ。理解できないものは理解できない。
ただし、理解できないということを、理解することはできる。美術教育があり得るとしたら、その理解不能性を教えるべきであろう。「理解できないからダメだ、世界に遅れている」と日本人が西洋の美術を見て感じるとしたら、それは単なる勘違いであり、無教養ではなく、スケールの差異に対する無自覚に過ぎない。

抽象表現主義以降のアメリカのアートは、アメリカのスケール感の上に成り立っている。美術を知ることとは、形式を真似することではなく、土地によるスケールの違いを認識した上で、そこの土地独自のスケール感を感じた上で、美術を鑑賞することである。

グッゲンハイムで「具体」展を行っていたが、具体の失敗は、そのスケール感の差異を見破れず、形式のみを直に輸入しようとした点にある。結果として、非常に奇妙な感覚の作品が出て来たので、それはそれで面白いが、やはりそれは大きな誤解の上に基づいていたことは事実であると思う。具体に宿る美しさとは、大きすぎる誤解の上に築き上げられた、とてつもなく大きな努力であり、それは陳腐な言葉で言えば無謀さと無防備さを伴ったイノセントな青春であろう。そのナイーブさは、一度、見事なまでに破壊された日本という国独自の、盛大な勘違いであり、その勘違いが膨大なエネルギーを持った時、それは西洋美術を相対化し得るほどのパワーを持つ。
ただ、それらは作品としての強度は持たない。あくまで借り物の形式をなぞっただけだからだ。しかし、パワーは持つ。「青春」という無鉄砲なエネルギーと対になって語られる言葉は具体に最もふさわしい。しかし、「青春」ほど美術に似つかわしくない言葉であるのも事実だ。私は、日本の「青春」である具体を見て、胸を引き裂かれるような感傷を覚えたと同時に、あまりの作品の脆弱さに心が痛むのを感じた。


さて、もう少し、細分化してみていこう。
スケールの問題について、これまで語ってきたが、これも、マンハッタンと郊外では微妙に異なる。

マンハッタンは、完全に独自のスケールに従っている。
しかし、マンハッタンから電車で一時間半ほど東に行ったところにある、ディア・ベーコンという郊外の巨大な美術館を訪れたが、そこで見たミニマリズムの作家たち、サイト・スペシフィックの作家たち、どれもがマンハッタンで得ていたような、その力を完全に失っていた。
(参照:Dia beacon 常設展 (http://www.diaart.org/sites/longtermview/1))

セラ、ロバート・スミッソン、マイケル・ハイザーらは、ディア・ベーコンという郊外の美術館では作品が持つ力の半分も発揮できていなかったように思う。なぜかと言うと、作品そのものが持つ「異物感」がディア・ベーコンでは感じ取れなかったからだ。その理由は、周囲のあまりに美しい自然と、広大すぎる美術館の敷地にある。
セラは、「鉄」という人間とは本来、相容れないものを提示し、しかも作品を固定せずに作品が独自で立っている(つまり、支えがない)ため、スペースの中の鉄はその異物感を存分に発揮する。しかし、ディア・ベーコンは、あまりにスペースが広大で、セラの異物感すらも包み込んでしまう、包容力があるのだ。
同様のことが、スミッソン、ダン・フラヴィンなどにも言える。スミッソンは、健闘はしていたが、彼の作品の持つ、自然への人間の異物としてのアプローチが、異物感として頭に入ってこない。置物のように展示されたスミッソンの作品は、ミニチュア模型のように、大人しい。スミッソンの限界というわけではないが、本来持ち得るスケール感が打ち消されてしまっている。
セラの展示をマンハッタンで見た時には非常に良かったことを考えると、スミッソンも、屋外やもっと狭いスペース、つまりスケール感のふさわしい所で見ると全然違うだろう。

マンハッタンのスケール感とは、このように非常に特殊であると同時に、外に出た途端に威力を失うような繊細さも持っているのかもしれない。

そして、意外だったのが、ディア・ベーコンで、唯一と言って良いほど良かったのが、
共にドイツの作家だが、ゲルハルト・リヒターと、ヨゼフ・ボイスであった。彼らの内省的なアプローチは、ディア・ベーコンの広大なスペースにも全く干渉されず、直に胸に届いた。

ここで、アメリカ美術の一つの、強力な弱点が露呈したように思われる。

70年代以降のアメリカ美術(特にミニマリズムの巨匠と言われる作家など)は、そのアメリカ特有のスケールに依存しすぎている。そして、内省的な要素があまりに省かれ、即物的になり過ぎている。身体に、直接的にスケール感をぶつけることには長けているが、いざ、そのスケール感を発揮できないと、ただのデカイものになってしまう。もしくは、自然物に埋もれ、見過ごされるようなものになってしまう。異物感を発揮するには、それにふさわしいスケールが必要で、そのスケールにはそれ相応のスペースが必要なのだ。
そして、それ相応のスペースを用意されなかった時、作品はその無能さを露呈するのだ。

その点、ヨーロッパ美術、特に先に挙げた、リヒター、ボイスなどの歴史を深く踏まえたものは、どのスケールにも対応可能であるかもしれない。それは非常に心理的なものだからである。そして、どのスペースのおいても、どの状況でも心理的効果を発揮する。

大雑把に言って、戦後のNY美術は、そのスケール感と、ある種の無敵感、そして素朴な自然との対峙によって形づくられてきた。それはヨーロッパが深く内省的な穴に落ちたのと、好対照を成した。あまりに内省的に過ぎたヨーロッパは、その活力を第一次対戦以降失い、その代わりにアメリカは活力を日増しに増していった。

その結果が、ヨーロッパに対する、戦後アメリカ美術の隆盛に深く影響していることは自明だ。

ただ、そこで、あまりにスケール感に頼りすぎたNY中心のアメリカ美術は、巨大化し、即物化した結果、その芸術的幅を狭めてしまったように感じる。その結果が、私の私見ではあるが、ディア・ベーコンにおける、アメリカ美術の、リヒターとボイスに対する完璧な敗北に、その一端を見せていたような気がする。


しかし、ある美術の形式が万能で無い事は当たり前だ。NY美術も、その姿を常に変えつつあり現在に至る。ミニマリズムも、サイト・スペシフィックも、いわば過去の美術の動向であり、現在は全く違った形で展開されている。

それはおそらく、空白の70年代から80年代に由来するだろう。NY美術は、ミニマリズム、サイト・スペシフィック(ランド・アート)、ポップアート、それぞれが抽象表現主義の後に現れては、一端、消滅する。そして、再びNYは世界の中心に帰り咲くのだが、それは90年代に入り、「本当のコンテンポラリー・アート」が実現してからだ。それまで数十年間の、NYの美術は、一端、死に、過去の功績の上でのみ成り立っていたと思われる。


しかし、NYは復活する。それはもはや、スペースの持つスケール感に頼るものではなかった。それは、もっとコンセプチュアルでポリティカル(政治的)なものであった。
NYは「コンテンポラリーとは何か」ということについて、正面から向き合う。それが90年代以降である。そして、それによって今日に続く、アートにおける世界の中心の場を確立する。

おそらく、NYは今後、数十年はアートにおいて世界の中心で居続けるだろう。それは、そこにコンテポラリー・アートがあるからだ。決して、大きなアメリカ型のスタイルが万能だからではない。先に述べたように、スケールは国や土地によって違い、決して万能なものではない。普遍性を持たない。パワーバランスが崩れれば、最もパワーを持った国のスケール感が、世界の基準となる。そして、現在、よく言われるグローバリゼーションの中、一つの国のスケールによってアートの価値判断が行われることはない。

先にNYのチャルシーのギャラリーはある一つのスケール感に統一されていると述べたが、そのスケール感は、単純にアメリカの土地から生み出されたというものだけでは、もはやない。もっと折衷的なものである。世界中の国々が集まり、混合し、その結果生み出された特殊なスケール感である。非常に複雑なものが作用して、チェルシーのスケール感は存在する。よって、チェルシーに代表されるマンハッタンのスケール感は、完全に独自の発展を遂げている。そして、今、そのスケール感が世界の標準である。念の為に言っておくと、「アメリカのスケール感」が世界の基準なのではない。「マンハッタンのスケール感」が世界の基準なのである。これはとても重要なことのように思われる。
マンハッタンは美術において、それほど特殊な場所なのだ。おそらく、マンハッタンは、アメリカにとっても非常に特殊な場所であるだろう。

そして、マンハッタンの現在の特殊性を支えているのは、そのコンテンポラリー性である。

このNYコンテンポラリーアートを最も良く示すのは、現在、NYニューミュージアム・オブ・コンテンポラリー・アートで行われている"NYC 1993:Experimental Jet Set, Trash and No Star"という長いタイトルの展覧会である。
(参照:http://www.newmuseum.org/exhibitions/view/nyc-1993-experimental-jet-set-trash-and-no-star)

この展覧会は、ニューヨークで1993年頃に創られた作品が一挙に展示されている。そこには、まさに「現在」に立ち向かうコンテンポラリー・アートとしての強烈な姿勢が見られる。
ここにNY美術のNY美術たる所以がある。つまり、80〜90年代以降、NYはそのスケール感に依存することから脱却し、複雑なコンテクストを内包した現在(コンテンポラリー/リアリティ)と真っ正面から向き合うことを選択する。
それによって今日の、NY美術のアイデンティティは存在する。そして、NYが世界のアートの中心であることは、この展覧会が指し示す「コンテンポラリー性」と非常に深い関係がある。

NYはある国際基準となるスケール感を作り出し、それを基に世界のアートワールドを征服することに成功した。しかし、それも行き詰まりを迎えた時、NYはスケール感に加え、「コンテンポラリー性(同時代性)」という強烈な武器を出してくる。

今は、アートのコンテンポラリー性(同時代性)の最先端は例えばドイツのドクメンタにあるのかもしれないが、少なくともNYは最先端ではなくとも未だコンテンポラリー性を失ってはおらず、生成を繰り返す都市として、そしてアートマーケットの中心としてその存在意義を失っていない。

2013/01/20

90年代J-POP (ジュディマリとか..)

今年するべき大きな仕事は終わって、寝てばかりいます。
安堵感..

本当は論集に乗せる原稿を書かなければいけないんだけど、締切が2月14日..。まだ先..と思ってたら間に合わなくなるパターンですね。
芸術学の大学院生が作る論集で、そこそこ質の高い文章(引用とかしっかりしてる感じの)を掲載しなければいけないので、準備しなければ。
文字数も1万2000字と、多いのか少ないのかよく分からない感じですが、引用とかきちっとすると、時間かかるんだろうなぁ。記録に残るし。


暇なので、ちょっとツイッターに書いたけど、90年代のJ-POPの話を。

ニコ生で JUDY AND MARY の解散コンサートを放送してて、ジュディマリ熱が再燃したわけです。
正直、あまりあの解散コンサートは好きではなかったんです。それというのも、実は自分はジュディマリの結構なファンで、それまでの流れで色々感じてきたからです。

特にYUKIちゃん(「YUKIちゃん」と書くと気持ち悪いかもしれないですけど、「YUKIちゃん」は「YUKIちゃん」ですよね。「YUKIさん」だとファンって感じがしなくてよそよそしいし、「YUKI」だと呼び捨てで失礼な感じがするし..。もうちょっと世代が上の人が、松田聖子さんを「聖子ちゃん」と呼ぶのと同じ感じでしょう。永遠のアイドルですからね。)
YUKIちゃんの変化が大きいのではないかと思います。『The Power Souce』 (1997)というアルバムが絶頂だった気がします。
というのは、YUKIちゃんの日記本みたいなのにも書いてあったけど、『POP LIFE』(1998)のレコーディングがロンドンで行なわれたのですが、YUKIちゃんはホームシックというか、メンタル的に弱ってしまったということが書いてありました。「涙が止まらない」状態だったとか。。

大変ですね。。その影響か、たぶんその影響ですけど、『POP LIFE』は「いかに強くなるか」みたいな歌詞が多い気がします。あと、少し観念的な言葉が多いですよね。

顕著なのは、『ミュージック ファイター』(1998)。
『あたしのライフワーク大地に響け/荒れ果てた大地に花を/強い笑顔を』

という歌詞を聴いた時は「えっ!?」と思いました。個人的な感覚ですが。

それまでは、YUKIちゃんは日常のささいな恋話を歌ったり、ちょっとした心情とか、日常のディテイルを描くのがすごく巧かった気がします。天才的と言っていいほど。

一番有名な曲『Over Drive』(1995)でも、
サビの始めの、『走る雲の影を飛び越えるわ』という所がすごく好きです。
そうそう、雲って地面に影を作るよね。それを飛び越える感じ、その体感的な感じの、青春のスピード感というか、わかるわぁ..という身近な感じというか。(ほかに、もっと良い歌詞もこの時期のジュディマリには、いっぱいあります)

『The Power Source』まではYUKIちゃんの詩はキレキレでしたね。特に、『ラブリーベイベー』の
『まきまきまんめい/もきゅめんめい/まきめきめきめきめき/まめまっきょめきゅまめい』
という歌詞は衝撃的でした。最後の『めきゅまめ〜い!』が可愛いですよね。


それが『ミュージック ファイター』では、「荒れ果てた大地」が出てきて「花を」と言う。曲としては凄く好きなのですが、YUKIちゃんが強くなろうとしてる..と少し寂しい気もしました。「弱い」YUKIちゃんが好きなわけではないのですが、こう、多少「無理して」強くなろうとしている感じを受けて、それが詩に表れていて、なんとなく寂しくなったわけです。(あの曲自体は凄いけど)

そう言えばその前のシングルの『散歩道』からそういう気配はしてました。
前と同じ言葉を使ってるんだけど、YUKIちゃんの観察眼というよりも、精神性というか、「こうあらねば」みたいな気持ちが詩に出て来た気がして、「これはどうなるのかな..」と思っていました。


その後、ジュディマリは一回、活動を休止するんですよね。
それは必然だったと思います。


その後の展開については、色々、深いものがあるので一概には語れません。

ジュディマリが復活した!とは思わなかったけど、強くなった!とは思いました。
そして、なんというか別のバンドになった気がします。
個人的な勝手なイメージ(自由奔放なYUKIちゃんとポップなガチャガチャした楽しいバンド)からは離れていきましたが。

活動再開、第一弾の『Brand new wave upper ground』(2000)というシングルは、まだ迷走中な気がしましたが、
その後のシングル『ひとつだけ』(2000)は個人的に感動的でした。もうそこには子供のYUKIちゃんはいなくて、大人の、現実を真っ正面から歌うYUKIちゃんがいました。

そして、そこに再びリアリティが復活したのです。もう、『ラブリーベイベー』みたいな「キッチュ全開!」という場から遠く離れて、

再び自分のリアリティを生み出し始めた気がします。曲構成も、「二回サビがある」と言ったらいいのか、TAKUYAさんの才能が無駄とも言えるほど、発揮されてて、一曲に2,3曲詰め込んだんじゃないかって位、凝った構成。それなのに、聴き易い。詩にもあってる。

だから、ラストアルバム『WARP』(2001)は、一概に何も言えないのです。

確かに、1995年から1997年の、 Over Drive から、ドキドキ、そばかす、クラシック、くじら12号、ラブリーベイベー、Lover soul 、までたった二年間の間にこれだけの質のシングルを連発してた頃のジュディマリには、一種の無敵感と、刹那感があって、ほんとに魅力的だった。

YUKIちゃんも、弱い部分を見せながらも、どんどん成長していって、詩にも磨きがかかり、バンドとしての勢いも凄まじい期間でした。

でも、それは長続きはしませんよね。そういうタイムは。


「その後に何をするか」これは、ジュディマリに限らず、90年代後半に絶頂を迎えた多くのバンドに共通の課題だったと思います。

それで、ジュディマリは、少々無骨ながらも『WARP』というアルバムで回答を出して、解散した。『WARP』も、過去のジュディマリのイメージの焼き直しだったり、YUKIの声がバンドサウンドに微妙にマッチしていなかったり..色々、たしかにあります。
でも、ひとつの回答は出した。

それで、『WARP』の最後の曲(12曲目)に『ひとつだけ』が入っている。
これは、歌詞など分析したいところですが、それも野暮なのでやめておきます。とても気持ちの入っている曲、そして歌詞とだけ言っておきます。それ以上は言えない何かが、この曲にはありますよね。神聖さというか、もう、Judy and Mary が Judy and Mary のために作った最後の曲というか。。何と言えばいいんでしょう。私はこの曲は後期ジュディマリではすごく好きです。

とは言え、やっぱり、『そばかす』(1996)の頃のジュディマリは良かったなぁ..とか少し思ってしまいます。ラジオで「YUKIのオールナイトニッポン」というのがあって、毎週聴いてたんですよね。その中で、「数字とか順位は気にしませんけど..」と言い訳しつつ「そばかす、オリコン1位です!」と嬉しそうに発表していたYUKIちゃんは微笑ましかった (遠い目)


でも、ここで終わらないのです。
一昨日(?)くらいにニコ生でジュディマリの解散ライブを観て、もうその映像は観たことがあったのだけれど、もう一度観ようかなと思って観たのです。
勿論、YUKIちゃんの歌い方が、昔とは変わっていて少し寂しかった記憶とか、色々知った上で観ました。

そしたら、すごく良かった!
サウンドが強い。洋楽を聴いてるような、バランスの取れたズッシリしたサウンド。そして、10年くらい前の自分は多少がっかりしていたYUKIちゃんの声が、逆にすごく良い!

この声(YUKIちゃんは一度、喉を痛めて手術をしていて、声が変わったというのもありましたが)より昔のほうが良かった..と思っていたけど、今聴いたら、こっちのほうが良い!

MCも変な英語口調で、当時は「YUKIちゃん、普通に喋ればいいのに..」などと密かに思っていましたが、そのMCも、今聞くと、時代を感じさせないというか、逆に良い感じ。

普通、流行のものって、その時はかっこいいけど、時が過ぎると、かっこ悪くなったりしますよね。というか、それが普通ですよね。

でも、解散ライブの時のジュディマリはある種の普遍性というか、今、12年経った今も「強い」。当時はその「強さ」がダメに感じたんですが、いやいや、自分が子供でした。

感傷的(センチメンタル)な雰囲気もジュディマリには不可欠な要素でしたが、その裏にあるパワフルさというか、まあ、アルバムタイトルに引っ掛ければ「パワーの源」(the power source)がバンド内にあるということが、ジュディマリの最大の武器だったのかもしれません。

全然、刹那的ではない。むしろ、普遍的とすら言えます。勿論、ジュディマリの特徴として、「普遍的」とか言われるを巧く回避して、キッチュでポップな雰囲気に必ず落とし込むところが、このバンドの真に優れたところですが。


...とか、あれこれ色々考えて、ジュディマリの映像を漁っていたわけです。そして、98年頃のライブ映像を観ると、やっぱり良い!こっちの時期のほうが生き生きしてていい!


結局、どっちやねん...みたいな感じなのですが、まあ、それだけ時代と共に歩いてきて、その変化をリアルタイムで体験させてくれたバンドです。


「歌詞が観念的になる」という現象は、実は90年代のバンドが00年代を迎える時に、同時に起きたことなんですよね。正確に言えば、1998-99年くらいでしょうか。

「強くならなきゃ」という、そんな不思議な切迫感が、90年代のJ-POPシーンの崩壊を導いていった気がします。

それが良い事なのか悪い事なのか分かりませんが、「繊細さ」「日常性」が抜けて「強さ」「精神性」へとなぜか向かっていった。そして、それらのバンドの多くは、2000-2001年頃に一斉に解散するんですよね。彼らは21世紀を乗り越えられなかったとも言えますが、1997年までがあまりに特殊な環境だったとも言えるでしょう。

ターニングポイントとなった、各バンドの作品も言えるほどです。それほど、明確な変化がそれぞれのバンドにありました。
はっきり変化を示した作品を挙げれば、

スピッツなら『渚』(1996)『スカーレット』(1997)
Judy and Mary 『散歩道』(1998)『ミュージック ファイター』(1998)
The Yellow Monkey 『My Winding Road』(1998)
エレファントカシマシ『今宵の月のように』(1997)
Blankey Jet City『Sweet Days』(1998)
Thee Michelle Gun Elephant『ロデオ・タンデム・ビート・スペクター』(2000)

ミッシェルは、時期が遅いですが、(そしてスピッツは時期が一足早いですね。時代に敏感なのでしょうか、そしてスピッツは解散してませんね..その辺にスピッツの魅力がある気もします..)

「1998年」というのは、何か90年代J-POPにとって大きなターニングポイントだった気がします。
逆に言うと、細かく言えば1995-1997の三年間。
この間は奇跡的な時間が流れていた期間だった気がします。J-POPと大衆が完全にリンクしてた。音楽が自分自身でもあった。まさに文字通りの日本のポピュラーミュージック(大衆音楽) =「J-POP」が体現されていました。セールス的にも楽曲の質そのものと結びついていた。人気があるから買うのではなく、曲が良いから買っていた。人気があっても曲が良くなければあまり売れなかった。

そして、繰り返しになりますが、彼らは「知る人ぞ知る」アンダーグラウンドな存在ではなかった。ジュディマリとか『そばかす』で紅白(1996)に出場してましたからね。カルチャーの表面にきちんと出ていて、音楽を好きな人なら誰でも知っていて、聴いていた。

この1995-1997に何が起きていたのか。興味があります。
もう年月が過ぎたので、客観的に振り返れる時期が来たのかもしれません。当時は自分は14歳〜16歳で、思春期のど真ん中で、客観的に振り返ることはこれまで難しかった。
だいたい、思春期に聴いた曲とかカルチャーを人は美化したがるものですから。自分も、多少は美化しているのでしょう。でも、それでもあの時代は不思議だと、今でもふと思います。

なんだったんでしょう、あの時代は。そして、1998年を境とする「J-POPの崩壊」は何を意味したのか、または何に影響されたものなのでしょうか。
分析できたら、興味深い結果が出そうな予感がします。