2011/12/28

メモ(ポップとは何か -原点から考えなおす-)

もはや、ただのメモ帳になっていますが、今、見たら誰かが読んでる...

検索でひっかかってしまったのか、分かりませんが一時的にアクセス件数が
増えるのが謎ですが、そこはすいません。

このブログは未完成で、2012年夏頃に、体裁と整える予定。
ちなみに、プロフィール写真は、原稿依頼の仕事が来ますように!と思って、「仕事できそうな人」「気鋭の批評家」っぽく、写真の色彩を加工したものです。
勿論、本人ですが。仕事下さい。来年になったらでいいので..。

ということで、今はメモ帳変わりに使います。

(話が飛びます)

そもそも、アンディ・ウォーホルを研究している私ですが、一番、分かり易い問いは「アンディ・ウォーホルの美術史学上の位置づけ」というよりも、「ポップとは何か」という問いです。

「ポップとは何か」「ポップアートとは何か」。難しいと思いませんか。
ポップアートは、時代区分で、一応、整理されていますが、それはあまり本質的ではありません。

イギリス発祥、リチャード・ハミルトンがその最初期のアーティストというのは、事実でしょう。

ずっと、考えているのは、そのハミルトン「以降」の「ポップ」という概念です。

例えば、村上隆はポップアーティスト?
色彩、モチーフから言えば、ポップアーティストとカテゴライズされますが、けっこう曖昧なのが現状です。村上隆自身の作風も変化してきていますし、一概に言えません。

ただ、これはめも帳なので、主観的に書かせて頂きますが、「ポップ」とは非常に感覚的なカテゴライズの仕方です。
そして、私なりの「ポップ」という概念は、実は厳密に存在する。

例えば、美術史学を学んでいる私が言うのも何ですが、
ポップアーティストとして、認識されている、リキテンスタイン。
彼は、「ポップアーティスト」なのかもしれませんが、「ポップ」ではありません。

「ポップ」という、非常に感覚的な概念なのですが、私にとって、彼はその範疇外です。

「ポップアーティスト=ポップの感覚を持つ人」ではないということです。ややこしいですね。

ほかにも、ネオ・ダダともポップアートとも呼ばれる、ラウシェンバーグ、(ジャスパー)ジョーンズも、ポップではありません。

もう、感覚的ですね。
ただ、面白いのは、けっこう、その感覚性は、共有可能なものなのです。例えば、教授との世間話でも、ふっと共有できる「ポップ」に対する感覚がある。美術と全く関係ない人とでも、同様にふっと共有できる。それが「ポップ」という感覚の謎です。

とりあえず、手当たり次第、「自分が」ポップだと思うアーティスト(ジャンル問わない)、モノを挙げていきます。

横尾忠則/会田誠/ゲルハルト・リヒター/ビョーク/iPhone/アンディ・ウォーホル/JR/東浩紀/記号学/カート・コバーン...

あんまり、ないな...

デュシャンは深刻すぎるし、ロラン・バルトは頭が良過ぎる、宮台真司は悩み過ぎ、ダ・ヴィンチは深すぎ、ベーコンは美術の歴史を踏まえ過ぎ、構造主義は全体を説明し過ぎ、モネは色彩が...

おしい!という人やモノは多いけど、「ポップ」まで辿り着くのは、なかなか難しいようです。(「ようです」って何だ)

基本的な、ポップの条件を、今、選びながら考えていたら、いくつかキーワードが出てきました。

・深刻さをアピールしない
・楽しいのが前提
・主体がない、「私」を押し出さない
・社会との繋がり重視
・感情が不透明、もしくは見えにくい、もしくは無い
・浮遊
・「ポップ」であるフリをしない(自然にポップになってしまっている)


小説家とかどうでしょうね。夏目漱石はかなりポップな感じがする。太宰治も。
最近の作家は...う〜ん、深みを求めないという意味では、なかなか誰も当てはまらない。
川上弘美とか、すれすれなんだけど...
綿矢りさとかね..おしいんだけど違う...

直木賞系は、あれはポップとは言いません。ポップには、「ある程度」の深刻な深みが必要なのです。軽くてもいけないし、深刻でもだめ。

絵画に関しては、みんな結構、深刻ですからね。悩んでなんぼ、みたいなのもいるし、
天然で、創っちゃう人もいるけど、
どちらも、ポップかと言うと、そうではない。

リヒターくらいのレベルになると、ポップと言える。
要は、開けてるんですよ。全体に対して、何もかもに対して。それがポップの条件かなぁ。

なんでしょうね。
ポップとは「ふわふわ系」である。
こう言ったら、一番しっくり来るんだけど、これは個人的な語感の問題か...。

「ふわふわ」って何なんだ。。形が変えられるってことか..。
あ、これヒントだな...

政治と無関係というのも、一つの条件かもね。いや、これはイメージで、リヒターなんて、バリバリに政治犯を取り上げた絵画作ってたりするんですけど、そういった意味ではないんだなぁ..。もっと、こう、ね、もう一歩、引いた所から見た時のイメージです。

iPhoneはポップだよね。間違いなく。アプリ入れられて、汎用性が拡大可能なところも。あと、形。それと、あのすべすべした、そっけないカルフォルニア感...。

そう言えば、(この話、こんな長くなるとは思わなかった)
前回の論文で、デッドエンド(行き止まり)について書いたんですよ。このブログにもあるけど。誰も読んでないけどね!(読んだ人数の統計データ見たら悲しい...まあ、文字も小さいし分かりますけどね...)
行き止まり、つまり、「どこにも行けない閉塞感」と、それと裏返しの「どこにも行かなくてよい安堵感」。それが、ポップの本質なんじゃないかと。そう思ったわけです。

うん、我ながらいい線いってるよ。もっと、がんばろうよ。やればできるよ。

去年の頭の冴え具合はどこいったんだよ。

メモだと言いたい放題だな..ツイッターだと、文字制限あるし、読まれてる!っていう恐怖もあるから、それなりに考え、まとめやすいんだけどね。

でも、世間体とかあるし、ツイッターはなかなか不自由になって参りました。その点、未だに下ネタを書き続けている岡村先生はえらい。あれ、そのうち、またクビになるよね。その覚悟でやってるんだとしたら凄いけど、明らかに天然なので、まあ、そこが面白いとこです。。

何の話だ..。

そう、デッドエンド=「ポップ」という発想だ。
そうそう、諦めに近いけど、そこから出発する。それがポップ。

諦めって言うのは、これも論文に書いたけど、誰も読んでくれないから、あえて、もう一度書くと、コミュニケーション不可能状態のことです。

専門用語は避けたいけど、共通するコード(「ああ、あれね」っていう感じ)が、無い状態。
「えっ、何しゃべってんの?」という感じか、「なるほど、わからん」みたいな感じですね。
説明するのめんどくさいや。

一瞬、これ、誰か読んだらどうしよう、っていう恐怖に襲われかけたけど、そんなの気にしてたら、なんもできないわ。

今、”ポップとは何か -原点から考えなおす-”って、最初に付けた立派なタイトル見て、この迷走っぷりに自分でもびっくりした。

どうでもいいけど、今、よくツイッターで会話してる、井崎さんっていう多摩美院生の方がいるんだけど、彼女は本江先生の教え子として、共通の境遇なんだけど、あの人も、めっちゃつぶやくよね。面白いし。でも、実際会った時は、そんな饒舌なイメージなかった。
おしゃべりな人は、頭悪い、みたいな先入観があるかもしれませんけど、私はそんなことはないと思います。
とりあえず、井崎さんは、めっちゃ、言葉にする(しかも、どうでもいいことから、哲学的な悩みまで全部つぶやく)、あれは本江先生の元に集まる人の共通項かもしれないですね。

本江ゼミの人も、ゼミ終わった後とか、めちゃくちゃ喋りますよ。言葉が止まんないみたいな。あれは良い事だと思って見ています。

もう、終わりにしようか。ちょっと、ダレてきましたね。

これ、公開するのかな。公開したら、誰か読むのかな。今、ここで最後に書くのもトラップっぽくていいけど、何の価値もありませんよ、残念ながら、これを読んだあなた。

メモですから。

2011/12/12

【音楽】神聖かまってちゃん "ぺんてる"

明日、神聖かまってちゃんのライブに行ってきます。

神聖かまってちゃんの魅力は、一言で言えば「直接性」。

すぐそこで、本気で叫んでいるものを、私は無視することができません。
それも、自己陶酔ではなく、むしろ、自分のリアルタイムを執拗なまでに探求し、吐き出すこと。

これは、いわゆる中二病とは言いません。

なぜなら、中二病とは、自分自身と向き合うことから逃れる手段だからです。
私はそれを否定するつもりはありません。誰しもが、自分自身と向き合うようになるまでに、
「ほかの誰かになろうとしたり」「自分の現在を否定したり」「極度に理想化された自己水準を設定し、失敗したり」「他者を必要以上に怖がったり」するものです。

でも、神聖かまってちゃんは、一見、「ここではないどこか」を 探しているようで、そうではありません。

何かに憧れること、それが得られないこと、でも欲しがってしまうこと、失われた過去にしがみついてしまうこと。
それらを、全て「今」として、受け入れています。

の子さんは、"ぺんてる"の歌詞で、こう語りかけます。

"僕は大人になりました 冷たい風に吹かれて どうしようもない大人になりました"

これは、皮肉でもなんでもありません。本当に、大人になって事実を歌っているのです。
それに畳み掛けるように、こう続けます。

"ジャポニカ学習ノートのページがどんどんめくれてく 僕が学んだことなんて 風の中へと消えていく あーもうどうするか あーもう知らねぇぞ 僕は"

過去への郷愁を語りながら、もう戻れないことを悟りきっている。
そして、懐古的になるでもなく、諦めるでもなく、ただ「狂う」。このリアリティ。

しかし、
"風に吹かれてしまおう 落ち葉のようになれ果てよう"
と告白しつつ、

"考えて生きて生きてくような価値なんてどこにあるんだと僕は思うのです"
と、唐突に、大人になった現在も「変わっていない」「変わらない」価値観を述べる。
もはや、これは郷愁ではありません。現在の、「狂ってるけど、本当の言葉」。

"放課後から続く蛙道 どーでもいいやとほざきつつ どこまでもどこまでも生きたいと 願っているのかよ"
これほど正直で、ポジティブな歌詞を私は知りません。
過去を振り返り嘆く自分を突き放し、何度も「現在」に立ち返ろうとする。
あまりにも、リアルな歌詞です。

"殺してやると呟いて 頭を下げて謝った 僕はいつまでも そんな糞ゲロ野郎でさ"
ここで、過去と今の自分は、たとえ「大人になった」としても、繋がっている。繋がらざるを得ない。過去の自分からも、今の自分からも逃れようがない。その事実を確認しつつ、主人公は、「今」発言しています。感動的な言葉です。

ラストは
"また、ぺんてるにぺんてるに"
の繰り返しでこの歌は終わりを迎えます。
この主人公は、「ぺんてるにもう一度行けば、救われる」とは思っていません。
でも、「ぺんてるに行きたい」というのも本音。
つまり、主人公の本当の本音は
「どうすることもできないかもしれない。よく分からない。僕は、今を生きるしかない。それは変えることができない。でもどうすればいいのか分からない。過去に戻りたい。でも、今を生きるしかない..」という、「無限ループの、狂った生き方」です。

でも、そこに私はリアリティを感じるのです。
直接、私の「今」を刺激するのです。

名曲だと、思います。

というわけで、もう言い訳が効かないほど「大人になった」自分(30)は、神聖かまってちゃんを、明日、聴きに行きます。

「大人になること」
その、狂ったリアリティを、正面から、きちんと受け止めてきたいと思います。

神聖かまってちゃん "ぺんてる" PV (Youtube)

【音楽】マイブラ (My Bloody Valentine)

マイブラ -ノイズによるディスコミュニケーション、その後に訪れる新たな契約 -

1.Googleで調べたら、 disるは、disrespectの略だった。。 尊重しない、尊敬しないだから、 受け流すってより、その人の価値を無視する。侮辱する。軽蔑する。 とか、そんな感じ。

2.disrespectって面白い概念だな。 だって、相手の存在を認めつつ、それを否定するんだから、 無関心とかよりも、かなり強い。。 感情がこもってるし、なんか怨念を感じる。接続ではなく切断。

3.ただ、切断するにも理由がある場合がある。 切断することによって失うことよりも、得ることのほうが多い場合。 得るものとは、再び生き返った、新たな契約。再構築されたコミュニケーション。

4.ここで思い出すのは、音楽のシューゲイザー。じっと、足元を見て、観客を見ずに、轟音を鳴らしまくる、バンド。ある意味、観客をひたすら、disる、パフォーマンス。
マイブラがその代表。 マイブラの、"you made me realize"での、ひたすら20分くらいノイズだけを轟音で鳴らされる修行のようなライブを体験した。あれは、観客をある意味でdisること、もしくは、観客とのディスコミュニケーションを経ての、新しい契約、繋がりを獲得する経験だった。

5.新たな契約には、一旦、関係をリセットする必要があって、あれだけ長時間ノイズの嵐を観客に体験させる。 バンドと観客の関係は、そこでカオス化し、究極のゼロ地点まで、引き下げられる。脱コード化、脱共感、脱感動、脱コミュニケーション。 そして、もう一度、同じリフに帰った時、新たな関係が結ばれる。

6.マイブラと観客の新たな関係とは何か。。新しい契約。新約聖書になぞらえれば、(神との)新たな約束だ。 マイブラと観客の間の関係ではない。長く聴き苦しいほどのノイズの世界のとき、観客は音楽への依存を断念する。そのとき、もう一つの何かに気付く。

7.マイブラの音楽と観客という、分かりやすい関係が破綻しかかった時、観客は、マイブラへの依存を辞め、自ら、神を見出す。ノイズはそのための装置に過ぎない。 もう一度、イントロへ帰った時、ものすごい歓声が起こるのは、安心ではなく、その逆だ。何かを手に入れた喜びだ。しかも、自力で。

8.2008年のフジロックでは、マイブラを観た後、他のバンドが聴けなくなったという声が聞かれたが(自分もそういう状態になった)、それは、マイブラしか聴けないということではない。 音楽とは何かが、分からなくなったのだ。 なぜか。 観客とコミュニケーションするのが、ライブだという固定概念が外されたからだ。

9.つまり、ライブ=バンドと観客の共感。という、最低限守られていたルール(たとえ音響派でもアンビエントでも音楽のジャンルは問わない)が、変えられたのだ。 はっきり言えば、音楽ファンが音楽に依存しているという、暗黙の了解、そしてそれを良しとされている場(ロックフェス)で、 その依存を断ち切ったのだ。

10.無意識ながら、自立してしまった音楽ファンは、一時的にしろ、 「音楽を必要としなくなった」 それが、08'フジロックは初日のマイブラで終わったと言われる原因ではないか。 いや、そう思ったり言っているのは、自分を含めたごく少数派かもしれない。

11.ただ、マイブラのアクトが終わった後の、星の美しさが、普段見慣れている星と、比べものにならない程、美しかったのは、事実だ。はっきり覚えている。 あの時、輝く星を観て、白痴のように、清々しくあっけらかんと感動したのは、星の輝きが変わったのではなく、自分の何かが変わったのだ。

【映画】 "セブンス・コンチネント" ミヒャエル・ハネケ


1.ハネケのセブンスコンチネントという映画では、日常生活を成立させるに必要な文法がまず、詳細に描かれてた。歯磨きとか食器洗いとか…。 で、まず水槽が破壊され、紙幣が捨てられ、文法が無化する。


2.文法が無化された後、一家でテレビを眺める。よくある歌番組が映っている。 ここで、初めて脱コードが示されたのではないか。 つまり順序が重要だ。破壊されるのは文法が先で、最終的にコードが破壊される。コードを破壊するためにハネケは周到な用意をしている。


3.ハネケは分かっている。非日常的な行為によって、文法は壊せても、まだコードは壊せないのだ。 一家が心中するという、理解不可能な事件をモチーフに、周囲との遮断の可能性を探っている。そして、それがどのようにして可能か観客に問うている。


4.説得性を持たせるために、 まず日常文法の破壊、そして、そのあとにようやく訪れる、脱コード性。周囲との完全な遮断は、行為によって用意され、感情によって完結する。 この段階を追体験させることで、地球上に六つしかないはずの場所に、コードを通り抜けた第七の大陸を初めて出現させる。


5.難解な映画だ。。 でも、ここまで説明しなければ、セブンスコンチネントという概念は、完結しない。 要は、完全にコミュニケーションから外れた場所を創り出すのも、 並大抵の努力ではできないし、理論的裏付けが、どうしても必要になってくる。 それほど、この社会から逃れるのは難しい。


6.日常生活を徹底的に観察し、そこに人間との断絶を見出すこと。
(これは、私が研究しているアンディ・ウォーホルと共通する点である。ちなみに、ハネケの"ベニーズ・ヴィデオ"ではウォーホルの絵画が登場する)


7.付け加えると、映画セブンスコンチネントでの一家でテレビを観るシーン。 テレビの中で歌う歌手は、正しい形で「表現」している。歌番組という文法の中で、それに即して歌っている。 しかし、一家は受け取らない。伝達は不成功に終わっている。 正しい文法に則った表現が、なぜ不成功に終わるのか。


8.受け取る側と発信側の溝ゆえだ。どういった溝か。 それが、コードの本質だ。 全ての、「表現、伝達」の条件が整っているにも関わらず、それを不成功に終わらせるもの。 家族は、家を全て破壊した。残るのは何か。心だ。感情とも言い換えられる。しかし、果たして感情は残っているのか。


9.そもそも、感情とは何か。どうやって感情があるか無いか計れるのか。 それは、発信者からのメッセージを受け取る意思、もしくは意識があるかどうかだ、とハネケは言っているのではないか。 つまり、相手のコードに自分のコードを合わせる意思。これが感情の本質だと言っているのではないか。


10.そして、この映画では両親にその意思が無くなっていることを明確に示すためにテレビが使われる。 ただ、ハネケの他の映画、隠された記憶などでも、執拗にテレビは登場する。そして、それは登場人物に伝達されない。内容が世界の情勢など、登場人物と無関係なものが恣意的に選ばれている。


11.表現、伝達されるが、それを受け取らない。伝達の失敗。 日常生活の中で繰り返されるコードの無力化。その象徴としてのテレビと人の間の伝達の失敗。 画面のあらゆるところにコードの不在が暗示される。


12. 重要なのは、"感情の不在"、もしくは"感情の喪失"の本質は、まさに、その日常的に繰り返される"コードの不在"に潜んでいるということだ。







【映画】"白いリボン" ミヒャエル・ハネケ



「白いリボン」 ミヒャエル・ハネケ監督


(これはTwitter上で"白いリボン"について書いたものを、まとめたものです。なので、思考が時系列。)


1.ミヒャエル・ハネケの「白いリボン」観た。もう大傑作だわ。言葉にならない。 あえて言えば、これまで「何か」を暗示し続けたハネケだけど、その暗示する「何か」が、より、「巨大」に「(歴史的な意味で)総合的」になった感じ。 すごいの観たなあ…。 世界最高傑作ってこういう映画なんだな。


2.映画「白いリボン」は、モノクロだし、長いし、暗いし、意味不明な個所も多いので、軽々しくはおすすめはできない。 


3.でも、ハネケの「白いリボン」は世界中の人、全員が観たほうがいい。意味が分からなかったとしても、それでいい。 あの謎は、経験しとくと、歴史の見方の根源が身につくと思う。


**


1.白いリボンについて。ひとつ謎がある。色々起こる事件の犯人は、誰か?という謎はどうでもいい。最大の謎は、あの映画に、なぜ語り手が存在するのか、ということである。そして、それがなぜ、教師なのか。 そして、語り手の優位点は、語りたくない事実に関しては、黙っていて構わないことである。


2.別に教師が犯人とか、そういうことを言いたいわけじゃない。 なぜ、語り手が存在するのか。 それが最大の謎だと個人的に思うだけである。


3.ハネケの映画で自分が観た限りでは、語り手がいる映画は一本もない。 白いリボンも、ハネケの力量をすれば、語り手なしでも、容易に映画として成り立たせることができるだろう。そう感じざるを得ない。 要は語り手は、あの映画の異分子なのである。


4.無論、時系列の整理、物語の推進力として、語り手が必要な場合も多い。 しかし、白いリボンにおいては、時系列を整理するどころか、混乱に貶め、物語の推進力になるどころか、物語としての整合性を壊している。 なんとも不思議な語り手である。 謎としか、言いようがない。あの教師。一体、誰なんだ。


5.あと、ついでに、教師は、エゴにまみれる村人の中で、唯一、完璧に善良な人物として描かれる。 なぜか。それは、教師が並外れて善良な人間だからではない。 語り手だから、善良に振る舞えるし、良きことしか語らなくて済むからである。 そこが、一回観た限りでは、最大の謎として、頭に残っている。


6.あの映画においての最大の権力者は、男爵でも牧師でもドクターでもなく、教師だということは言える。あの映画のシステム内に於いては。 システムそのものをコントロールしているのは教師。そして、その権限は未知数。 もう一回観てみます。


***


1.「白いリボン」、二回目観た。もう、この映画は言葉にする必要がない。むしろ、安易に言葉にしてはいけない。この映画は、「体験」することが重要。ひとりでも多くの人に「体験」してもらいたい。 ほかの映画と比べる必要もない。ハネケの過去作と比較する必要もない。その領域を完全に超えている。


2.「白いリボン」、謎解きであれこれ語り合う楽しさはある。今日も「あのシーンはどういう意味だったんだろう」と、鑑賞の帰り道、友人と話すのは楽しかった。 ただ、ディテールについて語るのと、この映画の全体像について語るのは、次元が全く異なる。 この映画の全体像を語るのは、完全に不可能だ。


3.なぜなら、白いリボンは、この世界そのものだからだ。この世界の細部について語ることはできても、この世界の全体について語ることはできない。それと全く同じように、白いリボンという映画全体について語ることはできない。白いリボンは、そういう映画だと思う。


4.「白いリボン」全体を言葉にするのは、無理と言ったけど、ひとつだけ。シニフィアン(記号表現)としての失敗にも関わらずシニフィエ(記号内容)は伝わること。(例を挙げれば切りがない)。それが、世界が変わる(歴史が変わる)本質的原動力となること。これがテーマという事だけは、確実に言える。


5.冒頭、語り手が、この様な主旨のことを述べる「これから語ることは記憶が曖昧だったり、噂話が元だったりする(=表現の失敗の可能性)、しかし、この出来事は、話されなければならない(=内容は伝達され得る可能性)」これは、実はテーマそのものだ。この構造が物語内部でも繰り返しただ反復される。


6.ひとつ例を挙げれば、教室で騒いでいた子供たちを牧師が叱るシーンがある。しかし、中心人物として叱られたクララは、実は騒ぎに加わっていない。シニフィアンとしては、牧師は完全に誤解している。しかし、クララの不信、悪意というシニフィエは、結果、牧師に伝達されている。この齟齬の繰り返しだ。


7.また、物語自体も、画面を極端に暗くしたり登場人物を増やして、シニフィアン(表現)を、恣意的に失敗している。しかし、それで観客は、不安、不信という、その時代のシニフィエを受け取る。 この構造が本質的原動力となり、世界が変わり、歴史が変わる。そして、観客の意識をも変える。見事だ。


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1.白いリボンはファシズムの根源を描いていると書いてしまったけど、訂正。 もちろん、テロリズム、ファシズムがあの映画のモチーフなのは、明白。 でも、あの映画の素晴らしさはそこだけではない。暴力を描くことで、人間の普遍的な有り様、歴史の普遍的な変化の仕方まで描ききったことに価値がある。


2.暴力やファシズム、テロリズムを描いた映画なんて、山ほどある。 ハネケも一貫して、このモチーフを取り上げ続けている。 でも、「隠された記憶」や「ファニーゲーム」は、みんなにはオススメできない。まだ、「普遍的」とまでは言えない。 「白いリボン」は、みんなにオススメできる映画。


3.LA WEEKLY紙が、白いリボンを「すでに古典」と評したのは、そういう意味だろう。


***


1.白いリボンと、倫理という概念は、つながる部分はあっても、部分的なテーマでしかなく、主要はテーマではないと自分も思っています。白いリボンを倫理という曖昧なキーワードで語るには、かなり厳密な、倫理という言葉に対する定義が必要になりますし…。


2.ただ、倫理を内なる倫理、外的倫理的と分けて考えると考えやすいかとは思います。 内なる倫理とは、神に対する垂直的なタテの倫理、外的倫理とは、世間に対するヨコの倫理です。


3.白いリボンにおいて、橋を渡る少年が、外的倫理に突き動かされた教師に叱られ理由を問い詰められると、内なる倫理を告白します。神は自分を生かすのか試したかったと。これは、少年の、外部(村社会)から遮断された、内なる倫理を告白する場面ととらえました。


4.しかし、教師は少年に、確かな内なる倫理の存在を認めながらも、見過ごし、再び村へ戻します。そこには牧師がおり、牧師が別の内なる倫理(宗教的倫理)で諭します。少年の内部に二つの内なる倫理が発生します。葛藤と齟齬が生じ、涙はその現れかもしれません。


5.結果として、少年マルティンは、プライオリティとして牧師の言う内なる倫理を優先し、消化しようとします。しかし、逆にないがしろになるのが、少年「自身」の内なる倫理、そしてさらにないがしろにされ、むしろ攻撃されるのが、村の倫理(外的倫理)です。


6.こういった意味で、白いリボンについても、倫理というキーワードで語ること、また、内的倫理が外的倫理に攻撃されたとき、そして過剰適応したとき、何が犠牲になるのか。(それは、村の倫理と、一番弱い者(2つのリンチ事件)です) 


7.こう考えると倫理というキーワードと、倫理という概念そのものが抱える二重性から、白いリボンは見直せるかもしれません。 もう一度、じっくり考えてみます。


***


1.白いリボンについての、倫理というキーワードでの解読。。いや、実は自分も倫理というものが何か明確に分からないのです。縦の倫理(超越的なものに対する倫理)は、もはや建前にすぎず、横の倫理(共同体的倫理、掟)のみで動いているのが、あの村の状態だということは分かります。つまり、教会のシーンが多いにも関わらず、縦の倫理、つまり(宗教的)超越的存在への怖れが、存在しない。


2.さらに共同体的倫理(横の倫理)すら混乱している。ドクターつまり、職業的倫理の象徴的存在であるはずの人が近親相姦をし、農村的倫理の象徴である男爵と家令も、村で起こる混乱、子供たちの行動を制御できていない。 つまり、横の倫理も崩れているわけです


3.そしてやはり、問題になるのは牧師一家でしょう。縦の倫理が存在しないこの村では、宗教的超越者(縦の倫理)に基づいて行動する模範としての牧師も横の倫理にのみ縛られている。単に家父長的威厳を守ろうとするだけ。


4.しかし、牧師は宗教的指導者。立場上は、縦の倫理に一番近い人です。ハネケが牧師一家を中心に描いたのはこの矛盾を描きたかったのではないか。


5.ここで、「では、縦の倫理は全く無かったのか」という問いが重要です。


6.縦の倫理は、在ります。形のみとして。それは、クララが置いた鳥の死骸が十字架だったように、横の論理に押しやられ、変わりに純粋な暴力として姿を変えて、潜んでいます。つまり、問題は横の倫理のみがはびこっていることではなく、縦の倫理の変容の仕方です。


7.横の倫理に押しやられ、抑圧され潜在化した縦の倫理は消えていません。むしろ、潜在化したことによって姿を歪められ、より邪悪で強力な姿に変容します。それは、あの時代のドイツ独特のものだったでしょう。潜在的な縦の倫理は、子供たちの混乱した行動、そして(安易に言っていいのか分かりませんが)、ナチズム、つまり縦の倫理が捻じ曲がり、大きく変化を遂げた形態へ変遷していきます。


7.つまり、横の倫理に圧迫された、人々の縦の倫理への欲求が、ナチズムを生んだ。簡単に言うとそうなります。


8.つまり、問題なのは、横の倫理のみで支配された世界ではなく(そのような世界は今の日本もそうですし、多く存在します)、抑圧され、潜在化してしまった縦の倫理の行方です。ドイツのあの村の人々は、素朴な縦の倫理への欲求を、隋所で示しています。


9.死とは何か尋ねる子供、クララの十字架を象った鳥の死骸、長兄マルティンの告白。特にマルティンの告白は純粋な宗教的超越者との対話を望むものです。それがあの村で如何にして歪んで行ったか。それがあの映画が指し示すものだと、今は考えています。


10.まとめると、「横の倫理によって支配された共同体」において、「縦の倫理が歪み」、「変容」し、後に「ドイツにナチズムを生んだ」という考察です。


11.ラストシーンは、こう読み取れます。「横の倫理のはびこった村」は、「それによって抑圧された縦の倫理」に「逆転され」、最終的に「新たに形を変えた」「縦の倫理」によって、「罰を受け」「再び支配される」。これがラストシーンの意味だと捉えています。


***
(以下、議論を分かり易くする為、表現を変更。「縦の倫理=倫理/横の倫理=掟」とする)


1.以下に書くのはあくまで憶測です。白いリボンにおいて、あの子供たちがナチズムに走ったのは「復讐」です。誰に対してかというと、牧師、ドクター、そして、あの村全体にはびこる「掟」に対する復讐です。


2.掟に従って育った者(子供 たち)が、それを無意識に模倣して、将来、自分たちも厳密な掟のある社会を作った(すなわちナチズムを作った)という考えがもしあったら、それは全くの間違いです。その逆です。


3.なぜ、ハネケはこの映画を創るにあたり、膨大な量の、当時の「教育」についての資料を読んだと言っているのか。なぜ「教育」なのか。なぜ、国際状況や社会状況、経済状況ではないのか。そして、なぜ、第「一次」世界大戦前なのか。それは、倫理と深く関係します。


4.つまり、ハネケの回答はこうです。厳密な意味での倫理が、将来ナチの党員になる子供たちの中で、捻じ曲げられたとしたら、この時期、つまり、幼少期から青年期、教育を受ける年齢においてしかありえません。


5.つまり、倫理が生来のものに近いものであると仮定したら、それを抑圧するには、よほどの強い力が、「早い時期」にかからないと、その人の倫理を捻じ曲げることなどできません。できるとしたら、それは「教育」のみです。


6.教育、それはつまり「掟」の習得です。掟とは、牧師のリボンのような強い規律を求めるものだけでなく、共同体全体のルールをも指します。つまり、一見、無害に見える教師が、語り手として大きな役割を担わされているのも、共同体全体のルールという、見えないほうの「掟」を象徴し、また容認した、最大の、罪を犯した人であるからです。


7.子供たちが持つ、生まれながらの倫理、それをあの村は封じ込めました。家庭内、学校、共同体全体において、子供たちを「教育」しました。そして、それはある程度、成功したかに見えました。


8.しかし、映画ラストで第一次世界大戦という、大きな社会変革が起こります。その敗戦によって、ドイツは経済的に困窮し、社会構造が変わります。すなわち、これまでの「掟」が通用しなくなります。するとどうなるか。封じ込められていた、本能が蘇ります。


9.つまり、「倫理」の復権です。それまで強い「掟」により手足を縛られていたものが、「掟」が無くなった瞬間、噴出します。ナチズムの初期の支持者は、農民、労働者だったと言います。つまり、古い「掟」に縛られていた者たち、古い「教育」を受けてきた者たちです


10.彼らは、倫理がつよく捻じ曲げられていた人々です。言い換えれば、絶対的超越者との対話を望みながらも、それを果たせなかった人々です。図式化すれば、常に掟(相対的関係)にさらされ、倫理(絶対的関係)に触れることを禁じられていた人々です。


11.非常に図式的ですが、人々がゲルマン民族の「絶対性」を支持し、ドイツがヨーロッパの一つの「国」にすぎないという「相対性」を拒否した。これがナチズムの根底にあるのではないか。そして、そのような極端な「絶対性」への希求は、潜在的に農村社会の中で培われていったものではないか。


12.これが、ドイツの第一次大戦敗戦後、非常に民主的な憲法を作りながらも、国家の絶対性へと流れてゆく、底流となったのではないか。つまり、ドイツは戦争に負け、多額の負債、また、他国に対する怨念で、国家主義に走ったのではない。


13.もともと、ドイツという国がそういう国であった、ということです。潜在的に農村では絶対性への希求が高まっていた。それが、偶発的に起きた、第一次大戦という契機によって噴出した。きっかけは何でも良かったのです。


14.しかし、ある意味。戦争である必要もあった。なぜなら、ドイツ国内では、「掟」の力が強く、それを自ら壊すことは不可能だからです。サラエボという「国外」で起きた事件により、しかも戦争という大規模な社会変革によってしか、倫理の生きる道はなかった。それが第一次大戦だった。


15.倫理は戦争によって、命を得た。簡略化しすぎですが、そういう図式です。少なくとも、「白いリボン」が提示するのは、そういう図式です。村の外が一切描かれないこと、突然ニュースによって開戦が告げられること、映画の終盤、ドクターの一家という、村を構成する主要な存在が消え、


16.犯人が分かったとアンナが告げ、旧社会的な村の掟が、一気に崩壊していくことが暗示されます。そして、ラストで、「掟」の守り主たちが教会の席の側につき、新たな超越者(超越者なので画面には映らない)が演題に立つ所で映画は幕を閉じます。


17.それは、倫理の勝利を意味します。子供たちの良心の勝利とも言えます。そして、その良心とは無論、旧社会の掟に対する復讐を意味し、良心と絶対性、絶対性と排他性、排他性と暴力がつながることは言うまでもありません。


18.最後に「白いリボン」の宣伝ポスターについて。マルティンが白いリボンを巻かれ、涙を流す姿のものです。マルティンは超越者と接近しようとして橋の淵を渡り咎められ、自慰行為をも咎められ


19.つまり、生まれながらの宗教的倫理と、肉体的欲求、その両方を抑圧された存在として描かれています。その子供が流す涙とは何か。それは掟の中でも生き続けたマルティンの良心であり、いずれ掟から放たれる野生そのものです。これは将来のナチズムそのものです。


20.良心に従おうとし、絶対的超越性を求めたにも関わらず、「教育」によってそれらを禁じらた子供。彼らの倫理感は、禁じられていたゆえ、現実との接触をなくし、過度に理想的なまま大人になっても、保存されます。それは、理想的すぎるゆえ、イデオロギーとして強い形を持ちます。


21.普通は現実との摩擦のゆえ、倫理は常に揺れ動くもので、絶対的な形はとりません。しかし、潜伏し、真の意味での現実的な教育を受けなかった倫理は、過度に純粋なゆえ、イデオロギーとなってしまうのです。


22.非常に危険な。その意味で、ナチズムとは、過度に純粋な形の倫理を根底に持っています。それは子供たちの心の姿、そのものです。ナチズムの理想主義、民族絶対性、これらの極端な倫理感は、子供たちが望んでも、幼少時代に手に入れられなかった理想そのものです。


23. 結び付きを提示できたかは分かりませんが、(自分でも整理がまだ完全にできていません)、おおまかなヴィジョンとしては、殊に白いリボン内部でのヴィジョンに従えば、このように、子供の純粋な倫理とナチズムの関係を説明できるような気がします。


***


1.リンチ事件のどこが倫理的なのか、ということ。それには、また倫理とは何かという語彙説明から入らなければならないのです。


2.まず、倫理を良心と同義語として扱ったのは、腐敗した掟に対し、神(超越者)との関係から生まれた倫理は、外的影響を受けていない点で純粋であり、自らの意思にのみ従う、という点で良心と書いたのです。


3.しかし、戦時中とそうでない時の倫理が異なるように、良心(倫理)とはその状況の「中」での判断であって、いついかなる場合でも「絶対的に正しい」ものではありません。


4.だから、子供たちが、その状況下で「正しい」と思えば、それは倫理(良心)に基づいた行動なのです。そして、それはよい方向にも悪い方向にも向かいます。その「悪い方向」の例がリンチ事件です。


5.つまり、倫理(良心)に従って行動したかどうかは、その結果には左右されないもので、行動する者のモチベーションにかかっているものなのです。だから、仮に子供たちがリンチをしたとしても、それが自らの良心(倫理)に従っていれば、倫理的行為と呼べるのです。


6.ただ、これは極論です。一般的意味で言って、知的障害者に対するリンチが良心的などとは、誰が考えても間違っていると感じるでしょう。おそらく観客も全員そう感じるはずです。 そして、実はここから整理がついてないのですが子供たちもそれに気付いているのです。


7.あの、非常に複雑な話になります。そして、説明する自信がありません…。子供たちは、自らの倫理に従って行動できる村の唯一の存在でありながら、村の構成員でもあるのです。つまり、自分たちがやっていることの「悪さ」に気づいている。この二重性です。


8.この二重性の中で子供たちは生きている。だから、犯人だとしても(仮にですが)、名乗り出ない。質問に対しても「知らない(イッヒ・ヴァイス・ニヒト)」としか答えない。なぜか?その子供たちの心情は?実は私もうまく説明できないのです。


9.あの質問に対して毅然と答えるクララの存在感。あれは凄まじいものがあります。「凄まじい」としか、今は言えません。


10.ただ、付け加えれば、自分の前の言葉で言えば、クララの存在とは、「掟がはびこり腐敗した村で」「捻じ曲げられた縦の倫理が」「変容化(異物化)」した姿です。 ただ、その「変容」の内容が分からない。どのような変容か。とても難しいです。


11.ついでに、ナチズムにつながると前書きましたが、この変容の内容が、そのキーになるにも関わらず、実はうまく説明できていません。だから、ナチズムへのつながりも保留です。問題はクララなのです。クララこそが、縦の倫理が変容した姿なのです。


12.ほとんど全ての問題が、クララに結集しているにも関わらず、分からない。クララ、何を考えているのだ… クララ、お前にとって倫理とは何なのだ。何を、それほど頑に守っているのだ。お前にとって、この世界は、一体何なのだ?

【雑記】村上春樹 "アンダーグラウンド"




1.無差別殺人がなんで良くないかというと、それは命の大切さとか、そういう事じゃない。その人の人生を破壊することが、どれほど愚かな事なのかに対する無知だ。リアリティをもって無差別殺人を考えられないとしたら、それは人間として、最大の罪だ。


2.ただ、無差別殺人は、しょっちゅう起こるわけではないので、学習する必要がある。被害者、遺族が、どのようにそれまでの人生を歩んできて、その事件で、どのように人生が狂ったのか、感覚として知る必要がある。


3.それには、読書も重要な手段だと思う。個人的イマジネーションだけでは限界がある。 地下鉄サリン事件を扱った、村上春樹のアンダーグラウンド。被害者と遺族への超ロングインタビューで構成されてる分厚い本。読むのしんどいけど、これが無差別殺人か、と感覚をもって教えられる。必読だと思います。


4.あ、そうか。自分は地下鉄サリン事件、酒鬼薔薇事件の世代だけど、どの事件についての本を読むかは、世代によって違うのか…。 リアリティがなきゃなぁ…。そのへん難しい。世代に合った、目を通すべきドキュメント(第一次資料)は変わってくるのか。 今、二十歳前後の人には何が良いんだろう?



2011/12/07

【映画】 "2001年宇宙の旅" キューブリック


"2001年 宇宙の旅" - 相対性理論、一神教 -




2001年宇宙の旅(原題は、2001:スペース・オデェッセイ)は、"相対性理論"と"一神教"の視点から観ると面白いと思う。


月に着陸するときに、画面をスペースシャトルが横切るカットなんて、説明的には何の意味もない。あれは、観客に、宇宙的時間感覚を体験させ、その時間感覚が地球とは大きく違うことを示すもの。


ラストの(観てない人はネタバレです)、だんだん年老いていくところも、空間(あの部屋では主人公の位置の違いで象徴的に示される)によって、時間の流れは変わるという相対性理論の核心をビジュアル化したみたいに見える。あの観せかた、本当にうまい。


一番ラストのニーチェの永劫回帰は置いといて、問題はモノリスだ。モノリスは自分には一神教が如何にして成立したかの、太古からの問い掛けに感じられる。多神教ではなく一神教。では、相対性理論と一神教がどのように結びつくのか…。


アインシュタインがユダヤ人で、ユダヤ=キリスト教が今、地球を代表する一神教であることは間違いないし、なんらかの関わりはあると思うけど、それもまた横に置いといて、問題は相対性理論そのものと、一神教の関係だ。


一神教、ユダヤ=キリスト教は、どのように成立したか。まず、エジプトに奴隷として収容されたイスラエルの民が生み出した宗教、つまり極端な疎外感を感じざるを得なかった民の宗教だ。そこでは、異国の民としての孤立感(後に選民思想として現れる)があっただろう。


逆説的に、ユダヤ民族の連帯感は強烈だったはずだ。ほかとは「違う」時間がユダヤ共同体内には流れていたに違いない。その、周囲との圧倒的な断絶が強力な宗教、つまりヤハウェのみを信仰する、おそらく史上初の体系的な一神教を生んだ。


エジプトの太陽信仰も一神教といえば一神教だが、これほどの凄まじい強烈な戒律と体系は持たない。ユダヤ民族は、さっき書いた、周囲との断絶が凄まじい、危機的状況だからこそ、ある意味気が狂っているとも言えるほどの、他の民族とは全く異質の信仰を生み出した。そこでは、流れる時間さえ違った。


ここで、相対性理論とつながってくる。相対性理論は、大雑把に言えば空間の質によって、内部に流れる時間が変動する、つまり時間は絶対的なものではたく、相対的なものだという理論。短絡的かもしれないが、ちょっと眠くなってきたのでまとめに入る。。


ユダヤ=キリスト教に代表される一神教が持つ絶対的な感覚は、時間感覚ともつながりを持つ。あり得ないことだが、抽象的に考えてもらうと分かりやすいが、同じ地球上にいながらも、一神教を信じている人々、違う一神教を信じる人々、その他の人々は、時間の流れかたが違う。


来世思想を例にとると分かりやすいが、眠いので省略…。同じ地球上にいながらも、思想によって時間(歴史とも言い換えられる)が違うこと。これは、地球上で起こっている相対性理論にほかならない。


"2001年宇宙の旅"の原題は、"2001:Space Odyssey"だが、直訳すると2001:宇宙叙事詩だ。叙事詩、つまり、歴史を自分なりに解釈した物語という意味だ。冒頭、サルばっか出てくる原始時代から、21世紀へとワープするが、その間に何があったか。それは省略されている。


なぜ、恣意的に省略されているのか。そこがテーマだからだ。相対性理論とともに宇宙を旅する物語の背後には、モノリスという人間が創り出した最強の作品とも言える一神教が伴っている。2001年宇宙の旅は、未来を描く映画ではない。未来にしては、2001年という設定は当時としても近すぎる。


2001年宇宙の旅が描くものは、猿が骨を空間に投げてから、宇宙船が飛ぶまでの間に、人間が何をしたかを描いたものだ。つまりテーマは過去だ。とりわけ、一神教という多くの戦争を引き起こし、多くの人を犠牲にしたものに対する、問いかけであり反省だ。ラストの赤ん坊だけが未来を指し示している。


一応まとめると、アインシュタインの相対性理論と、地球上の宗教的意味での(比喩的な)相対性理論。この相似関係 。これが、この映画の大事なテーマのひとつだと思う。


そして20世紀の血みどろの争いも、この(比喩的な意味での)相対性理論と強く結びついている。キューブリックが意図したかどうかは分からないが、予言的にも、21世紀に入ってからの9.11とも深く結びついてしまっている。このことを考えると、1968年に作られたこの映画のテーマが、普遍的であること。それが、よりリアルに浮き彫りにされてくる。




補足:


この映画は、宗教を信仰している人々と、宗教を信仰していない人々。
その精神構造の違いを考える上で、非常に示唆に富んでいる。


ちなみに、私は「宗教を信じる」ということが、一体どういうことなのか?...どうしても分からないのです。。











【作家論】Chim↑Pom ≪Black of Death≫


Chim↑Pomの作品が持つ「有害性」



仮想現実、つまりパラレル・ワールドは、既に日本であふれており、決してそれは目新しいものではない。むしろ、見慣れたものであると言うことさえできる。

日本人は仮想現実的要素を、現在の国内の場所に見飽きるおり、もはや退屈している。

現代の日本の都市は、すでに、ずっと前からパラレル化している。渋谷のスクランブル交差点では、三つの大画面のスクリーンに映像が映し出され、「その場自体」が、すでに現実と仮想現実が混同したものになっている。また、その都市を行く人々も、名前のない匿名的存在である。

また、10年前なら違うだろうが、日本の都市がパラレル構造を持っていることは、もはや芸術の世界から見ても自明であり、ことさら、そこに芸術的な新鮮さを見出すことも、00年代中期からは無くなってきている。

また、よく00年代中期までには議論された、ハイ(高尚なもの)とロウ(低俗・キッチュなもの)が混在する面白さ、その批評性も、村上隆をはじめとする多くのアーティストが、すでに、90年代後期から表現し続けており、もはや、このフィールドに新鮮さがあるとは言い難い。

しかし、そこで現れたのが、Chim↑Pomである。
この集団は、端的に言うと「有害」であるところに特徴がある。

広島の上空に「ピカッ」という文字を軽飛行機で描く作品。「スーパー☆ラット」と称して渋谷で捕獲したネズミを剥製化し、ピカチュウのように仕立てあげた作品。これらは、観る側によっては、感情を逆撫でさせられるような要素を持つ。
実際、広島での作品は、Chim↑Pom側が謝罪するという事態まで発展しており、社会との軋轢を生んでいる。

ただ、パラレル化した社会、もしくはそれを「クールジャパン」などという概念で捉えること。そこに、上述のような、ある種の円熟、または停滞を感じてきた者にとっては、Chim↑Pomの作品は、これまでの日本現代アートシーンとは一線を画すものであり、否が応でも反応してしまう強さがある。

繰り返しになるが、現代日本の都市がパラレル・ワールドを内包している事態が誰の目にも明らかになった中、それはもはやただの退屈な現実社会であり、この状況をアートに落とし込んだとしても、それは既視感のある退屈なアートにならざるを得ない。

Chim↑Pomが投げかける疑問とは、「仮想現実と現実が、分裂し共存」(パラレル化)しているかのように見える(そして、そう長い間、言われている)この街は、「本当に」私たちが見て感じているものと同等なのだろうか。
このような素朴な違和感に基づくものである。

パラレル化が完了されてから、その時代は90年代後半から現在まで、あまりに長く続いている。そこに「感性の欠落」が生まれる。なぜなら、仮想現実的な世界を選択することが可能であることとは、本質的に自身の身体から切り離され、また、社会からもパラレルな位置関係を保てることである。そのような状態は根本的に「無害」だ。誰にも迷惑をかけない、そして自分も傷つくこともない。
そのような逃避的な選択肢が、予め用意された世界だ。
この状態を否定するつもりは、毛頭ない。現実世界だけで生きるには、あまりに苦しい者が、もう一つの選択肢を持つことは、極めて賢明な判断であり、多くの人がそれによって救われている。だからこそ、この状態は長く続いている。


しかし、リアリティを求める者にとって、この膠着した平和さは、ひどく退屈なものである。ことさら、アーティストにとってはそうであろう。

本質的に「無害」なものが用意されており、その枠内で活動する限り、日本の現代アートにおいて、永遠に新しい視点は生まれ得ない。

あえて、「有害」であること。社会的コンテクストから逸脱したり、非難を浴びるような行為をすること。

それによってしか見えてこない地平がある。停滞した日本のアートの現状においては。しかし、「有害」であれば、それでいいということでも、もちろん、ない。

ある種の、私たちが見落としていた、「本当の」リアリティ。「無害」な仮想現実では、感ずることができなかったもの。

それが、暴かれる過程として、「有害」が存在する。


それが、Chim↑Pomの作品が、単に「有害」なだけではなく、ある種、必然的に、優れた芸術作品としても認められる故である。

この、≪Black of Death≫と題された作品。内容は、カラスの剥製と、カラスの鳴き声を録音したものを拡声器で流し、東京の渋谷109をはじめ、各種のイコン的スポットにカラスを集合させるというものだ。

これは、Chim↑Pomの作品としては、一見、比較的「有害」ではないように見えるが、そうではない。本質的な「有害さ」はChim↑Pomの作品全てに共通する。無論、広島の件のように、加害者、被害者(精神的加害、被害、という意味での)とう分かり易い図式は持たない。

しかし、ある暗黙の了解がある都市において、その都市風景を変えること。それも、政治家、いわゆる一般市民でなく、ギャル的な格好をした、政治的、都市環境的なコンテクストに、全く関わってこなかった人々、つまりChim↑Pomのような集団が、例えば渋谷という東京を象徴するような都市を、カラスの群れで覆い尽くし、ヴィジュアルを変えてしまうこと。

それは、都市に生きる我々にとっては、明らかにコンテクストから逸脱した行為であり、また、周囲への配慮というものも、全くといっていいほど除外されており、不快感をあおる要素は山ほどある。

「配慮」というものが欠落している。それは、「有害」といっても差し支えないだろう。

しかし、Chim↑Pomを完全に擁護するわけではないが、Chim↑Pomの、この「配慮しない有害性」が、パラレルを暗黙の前提として、常に「逃げ道」を確保しながら都市を行き交う我々に、新たな鮮烈なヴィジョンを与えてくれる。

スクーターに乗ったChim↑Pomのメンバーが持つ、カラスの剥製は、仮想現実ではない。本当に、殺され、剥製化されたものだ。そして、それに群がるカラスも、仮想現実ではない。本当のカラスだ。ただ、普段は路上で餌を漁っていて、集団でこのように集まる光景が見えないだけだ。もしくは、大量のカラスが都市に存在することに、目を塞いでいるだけだ。
しかし、我々は、都市の内部に「実際に」潜む大量のカラスを、本当に観る。


Chim↑Pomはそこに「逃れようのないリアリティ」を提示する。


「有害な手段」は、そこで必要なものである。並のアーティストならば躊躇うところを、Chim↑Pomは躊躇わない。


まとめよう。

Chim↑Pomは、現実と仮想現実が共存する世界(パラレル・ワールド化が自明な社会)に、飽きた日本に生きる上で、あえて、有害であり、摩擦すら引き起こす手段を取る。そして、アンチ・仮想現実という、危険地帯に踏み込んでいくアーティストである。

そして、それは現代日本のアートシーンにおいて、強烈なインパクトをもたらし、これまでの「無害」な手段しか使用しなかった多くのアーティストの作品とは、明らかに一線を画す、新たな地平を生みだしている。そして、現在、彼らの作品は、確実に新たなリアリティを獲得している。

Chim↑Pomが「有害さ」を選択するのは、日本という場で、それが表現「手段」として、最善策だからであり、それは、賛否両論あろうとも、極めて賢明な判断と言わざるを得ない。


その「有害さ」がなければ、何も我々は見えないのだ。


参考映像: Chim↑Pom ≪Black of Death≫ (via. youtube)

2011/12/04

1995年という時代の"罪"



"輪るピングドラム"というアニメを毎週観ている。
アニメを毎週観るなんて幼稚園の頃のドラゴンボール以来だ。
ただ、これには理由があって、ツイッターでそのアニメが95年の地下鉄サリン事件をモチーフにしている、と知ったからだ。
モチーフと言ったって、暗喩というか、ぼかして描いただけだろ、と半信半疑で観てみたら、
むしろ、直喩と言っても良い位、「そのまんま」描かれていた。
「そのまんま」というのは、通常はフィクションに於いては「外す」、
事件が起きた年月日、事件当時のニュース映像が、無論、完璧に性格ではないにしても、
加工なしに取り上げられている。


これは一大事である。


なぜなら、ジャーナリストの森達也が強調するように、この事件は、
「もはや忘れ去られようとしている存在」であったからだ。


もっと正確に言えば、「タブー」ですらあった。


なぜ、タブーか。それを説明するのは容易ではない。
なぜなら、タブーとは、意識的に我々が作り出すものではなく、むしろ、無意識的な我々の生活に対する防衛反応が作り出すものだからだ。


ただ、これも森達也が再三、指摘しているが、タブーになった理由は一言につきるかもしれない。
「我々もオウムに入る可能性があった」
からだ。


いやいや、それはない、と思われる方もいるだろうが、オウムの特に林郁夫(サリン事件実行犯の一人)の手記などを読んでいると、「なんとまともな人だ」という印象しか受けない。


彼は人の命を救うため、医者になり、徐々に「医学の限界」を感じ、「精神的救済」に傾倒していく。その独白は、なんら矛盾することなく、我々が共感できる範囲内にある。


しかし、ここで落とし穴がある。


林郁夫だけが落ちた落とし穴ではない、95年前後を生きた、我々、全ての人間が落ちた落とし穴だ。


それは、バブル崩壊で「本当のこころの豊かさ」(今、思うと本当に奇妙な言葉だ)が叫ばれ始めた背景をもとに、
「自分探し」を肯定したことだ。しかも、「日本の社会全体が」肯定してしまったことだ。


これは、大変なことである。


なぜ大変かというと、まず「自分探し」という言葉の定義から始めなくてはならない。


「自分探し」とは、簡単に言えば、アイデンティティの確立に至る道程を意味する。


「私は~である」の「~」を埋める作業だ。


しかし、「~」は、自分で埋められるものではない。
当時、角川文庫の宣伝のキャッチコピーが、「自分探しの旅」だったと記憶しているが、
文庫にはさまったチラシには、線路を背景に、モデルが文庫を抱え、上記のキャッチコピーが大きく描かれていた。


つまり、外部と触れ合って、「自分とは誰なのか」を探すのだが、その探索の旅程に、多大なる犠牲があることを、あの時代、つまり95年前後は隠蔽していた。


フロイトを引き合いに出すまでもなく、アイデンティティを確立する作業には2つの要素が不可欠である。それは、承認と否定である。


あまり精神分析学に偏りたくはないが、
まず、無条件の承認があり、幼児は全能感を抱く。世界と自分は未分化の状態である。その後、「父」(象徴的な意味で、必ずしも実父を意味しない)による去勢がある。つまり、全能感が否定される。その否定によって、幼児は、「世界」と「自分」を切り離して考えるようになり、自立した個人としての道を歩み始める。


精神分析学を少しでも知っている人にとっては聞き飽きた、常套句であるが、数々の神話、伝統行事、つまり、人類学的な研究により、「父」による否定は、数多くの儀式と同一形態を持つことが証明されつつある。


では、95年前後に行われた過ち、もしくは誰もが陥った穴とは何か。
「自分探し」の負の要素とは何か。


それは、もう言うまでもないが、象徴的な意味における「父」の不在である。
つまり、全能感を持ったまま、「否定してくれる人」がいない。そして、その「否定してくれる人」の亡霊を、探し回る旅の時代である。


その亡霊は、どこにいるのか。


どこにもいない。なぜなら、本来、象徴的意味での父とは、不快なものであり、拒絶すべきものだからだ。
それでもやってくるのが、本当の「父」である。否定。それは、強制的に執行されるものであり、理不尽なものでなければならない。
心地よくあってはならないし、ましてや、自分から探しにいくものでもない。


首根っこをつかまれて、「罰」は執行され、我々は「断念」をする。自分と繋がっていたはずの世界と、強制的に区分けされる。


それがアイデンティティの確立である。


もうお気づきであろうが、これは「自分探しの旅」などという生易しいものではない。
宣伝のキャッチコピーに使われるようなものでもない。
社会が奨励するような、類いのものでもない。


もっと残酷で、絶対的なものだ。


我々(95年)は、間違えた。その「否定」は自分で「選びとる」ものだと。


全共闘世代(団塊世代)、95年世代(オウム世代)、ニート世代(00年以降)は、密接な負の連鎖で結ばれている。


ただ、私は、1981年生まれで、生身をもって、団塊世代を語ることはできない。


ただ、30歳になって、そして、アニメで95年を振り返る機会を得て、確信したことがある。


それは、95年という年が、どれほどの負の遺産を、今の時代(2011年)に遺してしまったかということだ。


それについては、いずれ書くとして、私の意識は、今、輪るピングドラムによって、95年という時代に遡行し、現代を振り返るという視点を持っている。


その視点は、輪るピングドラムによる大きな気付きで、直感的に「これは正しい」と感じるものであったので、それは引き続き考えていきたい。


我々は、どこで間違ったのだろうか。どう間違ったのだろうか。ということを今回書いてみた。


では、その間違いが、どう(無意識的にしろ)、00年代へと繋がっていくのか。これから、それを考えてみたい。それは、95年を生きた人間、そして、95年が何かを隠蔽したことを「知っている」人間としての義務である。

2011/12/03

アンディ・ウォーホル -何も指し示さない絵画- (2010) 〈終わりに〉

〈終わりに〉



 哲学者ウィトゲンシュタインの「論理哲学論」の有名な一節に「語り得ぬものには、沈黙すべし」というものがある。[i]
 
 これまで、ウォーホルついて、ウォーホルの奇妙な立ち位置。ウォーホルの絵画内で何も起きていないこと。ウォーホルの絵画は何も指し示さないことを見てきた。よって、ウォーホルの絵画と、鑑賞者とのコミュニケーションは、不可能だと結論づけられる。我々は、ウォーホルの絵画については、コミュニケーションの不可能性を語ることはできても、それ以上を語ることはできない。


 しかし、最後に、このような奇妙で、不親切とも言える画家、ウォーホルに対し、なぜ、我々は興味を抱き続けているのか。そして、時には愛着を持つほどに夢中になるのか。それを、鑑賞者側の立場として述べて、終わりにしたい。
 そして、ウォーホルが、いったい、我々に何を残したのかに触れて、結語としたい。




 最後のキーワードは、「ウォーホルとデッドエンド」である。これまで見てきたように、結局のところ、ウォーホルには、「どん詰まり」感がある。もう、これ以上行けないという感覚。「これで終わりだ」という諦観。
 つまり、ウォーホルの本質に迫ろうとした時、結局行き着くのは、「これ以上続かない絵画」。もしくは、「どこにも行こうとしない絵画」というデッドエンドの感覚である。

 そして、デッドエンドの感覚が、私たちに深く内在的に、「快楽」を潜ませていることも、ここで触れなければならないだろう。「もうどこにも行けない」とは=「もうどこにも行かなくてよい」ということでもある。

 北アメリカの歴史を思い出してみよう。そこには、イギリスから渡航したピューリタンが、北アメリカ東部に流れつき、そこから、西へ西へと、開拓してきた歴史がある。アメリカン・スピリットとは、まがいもなく、この「開拓者精神」であり、果てぬ夢を抱いて、西へと向かう、ある種の「終わらない旅」であった。

 しかし、旅は終わった。開拓者は西海岸へとたどりついた。現在のアメリカ西海岸に位置する、カルフォルニアに、ある種の、楽観主義とともに、開拓が終わった後の、虚無感が漂っているのを、感じることができるように・・・。(ニューヨークと、カルフォルニアは、全くその意味で、別の精神性を持った都市である)



 先ほど、デッドエンドの二面性を提示した。

 1.「どこにも行けない」という閉塞感。
 2.「もうどこにも行かなくてもよい」という安堵感。

 これは、コインの裏返しである。美術を考える上で、このデッドエンドの概念はどのように言い表され得るだろうか。
1.「どこにも行けない」という閉塞感。これは、単純な言葉で言うと、美術の終焉を意味する。美術の終焉とは何か。それは、もう新しいスタイルが必要ない、もしくは生まれない、ということでは「ない」。美術の終焉とは、そのような美術史的なものではなく、あくまで「個人」に起因するものである。つまり、「創造力を奪われる」ということである。




具体的に説明しよう。絵画を前にした時、我々は少なくとも、ある種の刺激を受ける。刺激といってしまえば、漠然としている。もう少し限定しよう。我々は、絵画を前にして、認識をしている。では、認識とは何か?それは命名することである。命名。分節化と言ってもよいかもしれない。
我々はただ、絵画を眺めているとき、それは「眺めている」だけではなく、ひたすらに「分析」している。 これは人間の本質的行為である。視覚から入ってきた「わけの分からないもの」を、分節化し、最終的には、「言語」として、「理解」する。(これには、多くの反論があるだろう。必ずしも、認識と言語化は一致しないという意見も汲みしなければいけない)。
では、もうすこしソフトに「カテゴライズしている」と言おう。カテゴライズも、あるものを、切り分け、認識しやすくすることである。 しかし、美術において、カテゴライズとは、「創造」を意味する。なぜなら、美術作品を前にして、我々は、個人としてそれに向き合い、自身の感覚と照らし合わせて、「新しい」認識を得るからである。
つまり、もともと「無」だった認識が、「ある形」を持つ。 人は美術作品を通して、無から有を創り出す。それは、「創造」と呼ぶことができるのではないか。我々は、新たな美術作品を前にして、無から有を創り出そうとする。まるで、作品と呼応しあうように、我々もまた、創造しているのだ。




しかし、1.の「どこにも行けないという閉塞感」を生み出す作品がある。その代表がウォーホルの作品である。この状態を、「不幸なデッドエンド」状態と呼ぼう。


「不幸なデッドエンド」状態にある人々に対する作品が、自らと呼応できない作品と出会ったらどうであろう。呼びかけても、返事をしない作品。何も話しかけてくれない、無口な作品。こちらから歩み寄ろうとしても、さっとその姿が消えてしまう作品。つまり、分節化しようとしても、不可能な作品である。
そこには、人間の認識は働かない。分析もできない。つまり、「見る人間の中に何も起こらない」作品である。(美術館に行ったことのある人なら、誰しも、訳の分からない現代美術を観て、少し、腕組みをして考えて、一応、作品のタイトルだけ見て、首をひねって通り過ぎる人を、何人、いや、何百人と見てきたことだろう)。
「不幸なデッドエンド」状態にある人々は、自分と呼応しない作品を、無視する。 それは、作品もまた、その人間を無視しているからだ。ここに、人間と作品との不幸な、コミュニケーション不可能性が発生している。

 簡略に述べれば、不幸なデッドエンドとは、作品の認識不可能性=自身の創造不可能性=作品とのコミュニケーションの遮断、という状態である。どこにも行けない閉塞感。この閉塞感を歴史的に関係付ければ、「もう西がない」ということである。

「西へ西へ」と、「未知なるもの」を発見し、その目と足で「認識」し、自分の土地として「所有」するという行為の終わり。それは、行き場のない感情として、彷徨いつづける。(まるで、ピストルを構えるエルヴィスが、ウォーホルのキャンバス上で、亡霊のように分身し、インクの量が減るにしたがって消え去っていくように)


 これが、デッドエンドのひとつの「不幸な」かたちである。そして、とりわけウォーホルが、このような「不幸なデッドエンド」の象徴であり、また、彼らを逆なでし、不快にさせる存在であることは、言うまでもない。


 では、そのコインの裏返し、「幸福なデッドエンド」とはどのようなものか。デッドエンドが、「どこにも行かなくてよい」という安堵感になるとはどのような現象か。

それは、「分からない」ということが持つ快楽が、根底にあると言える。美術で言えば、何も感じず、認識不可能で、読解不可能であることを、「楽しむ」という、ひとつの見方をいう。これは、「不幸なデッドエンド」とは、本質的に異なる。何が異なるのか。作品ではない。観る、鑑賞者側の態度が異なることに他ならない。



作品が「分析不可能」であることを、快楽として受け止める態度。これはどういったものであろうか。どういった態度であろうか。
先ほどまで述べてきた、「不幸なデッドエンド」の当事者は、「分からない」ことを、不快に感じる、もしくは、無視する。しかし、「幸福なデッドエンド」の当事者は、「分からない」ことを、快適に感じ、むしろそこに留まろうとする。なぜか。
それは、世界の構造に対する、認識、もしくは哲学の、根本的な違いから発生する。「幸福なデッドエンド」の保持者は、世界があまりに(過度に)「認識可能」であることに気付いている。それは、この世界が意味づけという、檻に入れられた、監獄であり、我々は、その見えない檻から脱出できない、「閉じ込められた存在」であるという認識に基づく。
そして、それは、得てして無意識の認識なので、顕在化することは少ない。 しかし、潜在的に、この意味的世界を「窮屈だ」と思っている人々。 または、そう感じてしまう人々は、無意味な作品に触れたとき、そこに「意味」を見出すのではなく、逆にその「無意味さ」を鋭敏に見出す。
なぜ、鋭敏にか。それは、潜在的に、それを常に探しているからである。そして、「意味」と「無意味」の狭間に位置する、美術館という空間に足を運ぶこと、その行為そのものが、無意識的に「無意味なもの」を求めているのではないか。
「幸福なデッドエンド」の保持者は、作品を、「意味のあるもの」(理解可能なもの)と、「意味のないもの」(理解不可能なもの)を腑分けする。そして、「幸福なデッドエンド」状態の人々は、理解不可能な作品の前で、より長い時間立ち止まり、鑑賞するのだ。
それは、作品が放つ「無意味さ」の波を受け取り、そこに波長を合わすことで、普段の「意味的世界」から、一時的にしろ、解き放たれ、そこに(ハイデガー的に言えば)、己の存在の本質が現出してくる様を、感じるのである。
 
これは、「不幸なデッドエンド」状態の人々が成し遂げられなかった、創造的(クリエイティヴ)な行為を「幸福なデッドエンド」状態の人々は実現しているということか。いや、それは違う。なぜなら、「幸福なデッドエンド」状態の人々は、そこから、何も創造しないからである。
 

つまり、過度に受動的な態度を取れるという、その「現象」自体に身をおくことを自らに許せる、その時間を享受している。そこからは、何も生まれない。この「何も生まれなさ」こそが、「幸福なデッドエンド」を感じる、キーワードである。 「幸福なデッドエンド」状態の人々は、生産者であることを放棄し、単に、享受する、ある種の「空白」となる。
作品の中に、どこを探しても意味など見当たらないように、「幸福なデッドエンド」の保持者の意識のどこを探しても、積極的に認識し、分節化する態度(意味づけ)は見当たらない。
 
「幸福なデッドエンド」状態の人々は、その内なる空白を、認識するだろう。これもまた、クリエイティヴ(創造的)な態度と錯覚されるかもしれない。しかし、空白を生み出すことを、創造的とは言わない。空白を生み出す時、我々は、完全に自我の形を「放棄」し、悪く言えば、己の自我から「逃走」している。


このような、「幸福なデッドエンド」の享受者も、ウォーホルの絵に反応する。 (ただ、それには条件がある。その時、鑑賞者の中に、どれほど「空白」に対する渇望があるかどうかだ。しかし、それは、条件に過ぎない)。
おそらく、「幸福なデッドエンド」状態の人々の中で、「空白」への渇望が高まったとき、ウォーホルを無視することは不可能であろう。そして、そこに求めていた「空白」を見出し、安らぎに身をゆだねざるを得ないだろう。 
 
このように、「不幸なデッドエンド」(どこにも行けないという閉塞感を覚える人々)も、「幸福なデッドエンド」(どこにも行かなくてもよいという安堵感を覚える人々)も、両者、ともに、否定的にしろ、肯定的にしろ、ウォーホルに対して、何かを感じずにはいられない。
 

このことは、美術史が証明している。ポップアートは一つの時代の「流行りもの」ではなかった。1962年、アンディ・ウォーホルが初めて、アーティストとしてデビューした年は、美術史に刻まれている。
それは、ウォーホルが「デッドエンド」を提示したからである。 
 
 ウォーホルの作品は「不幸なデッドエンド」の人々の感情を、不快という感情であれ、常に「逆なで」し続ける。また、「幸福なデッドエンド」の人々に、「空白」を享受させる絵画として存在し続ける。(詩的な言葉で言えば、「謎」として存在し続ける)
 

 デッドエンド。それはウォーホルが発明した、「永遠に謎であることによって、永遠に忘れ去られない」という、まことに奇妙なトリックである。


[i]ウィトゲンシュタイン,L. (山元一郎訳) (2001) 『論理哲学論』 中央公論新社





〈参考文献〉

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ウィトゲンシュタイン,L. (山元一郎訳) (2001) 『論理哲学論』 中央公論新社
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佐々木健一 (1995) 『美学辞典』 東京大学出版会
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日向あき子 (1995) 『ポップ・マニエリスム』 冲績社
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丸山圭三郎 (1987) 『言葉と無意識』 岩波書店
渡邊二郎 (1998) 『芸術の哲学』 筑摩書房
DVD 『アンディ・ウォーホル ザ・コンプリート・ピクチャー』 (2004) コロムビアミュージックエンタテインメント
DVD
 『アンディ・ウォーホル スーパースター』 (2005) コロムビアミュージックエンタテインメント

© Tatsuyuki Itagaki

アンディ・ウォーホル -何も指し示さない絵画- (2010) 〈第三章 (後半)〉


〈第三章〉
何も指し示さない絵画 (後半)
 

 では、ここで、最も重要となる概念を登場させたい。「コード」(code) という概念だ。「コード」については、再び、『文化記号論』の定義を引用する

 「理想的な伝達の場合、「話し手」が内容をことばによる表現に移し替える際に参照する決まりと、「聞き手」がその表現から内容を読み取る際に参照する決まりとが同じでなければならない。このような決まりのことは、術後でコードと呼ばれ(以下略)」[ix]
 
 これは、暗黙の了解、とも言い換えられる。例えば、アニメファンどうしで話す場合は、同じコードを共有している可能性が高いので、コミュニケーションは成立しやすい。「話し手」と「聞き手」が同じ決まり(アニメ用語・または同じアニメを観て、そのキャラを知っているという前提)を共有している(同一のコードを参照している)ので、「話し手」「聞き手」が成立する。
 逆に、全くアニメを知らない人がその会話に加わろうとしても、その「コード」が分からないため(同じアニメを観ていない。そのキャラを知らない。基本的なアニメ用語を知らない)、「話し手」「聞き手」の関係は、成立しづらい。

 しかし、これはまさに美術で行われていることである。先に、伝達の意思がない作品として、デュシャン、ウォーホルを挙げたが、これをコードという言葉に置き換えれば、「コードが不明な作品」となる。美術業界にも、アニメ業界と同じく「暗黙の了解」はある。すなわち、「コード」はある。

 例えば、宗教画で、キリストの周りを飛んでいる鳥は、たまたまそこを通りかかったハトの群れではなく、神とイエスを結ぶ「聖霊」の象徴である。「何故、鳥がいっぱい飛んでるんだろうか、描かれている人の誰かが餌を撒いてるのか」とは、ある程度宗教画のコードを知っている人であれば、絶対思わない。
これは、キリスト教の宗教画を見る、最低限の決まり、つまり、鑑賞者が参照する同一のコードがそこに存在するからである。

 ただし、ウォーホルが壊した「コード」とは、この種のコードではない。つまり、キリスト教の宗教画を観る時に必要な、同一のコードを破壊したという類のものではない。ウォーホルが行なった行為、それは「どんな絵画にも、何かしらのコードはある」 という、大前提を壊したのである。
例えば、宗教画に詳しくない人も、その「コード」を学習すれば、その絵画を理解することはできるようになる。しかし、ウォーホルの絵画には、そもそも「コード」が「存在しない」ので、どんなに学習しても、読み取れない。


さらに巧妙なのは、ウォーホルの作品は「キャンバス」に描かれ、「美術館(もしくはギャラリー)」に展示してあるということである。これは、美術作品を発表する上で、最も古典的な手法である。
印象派も、ピカソも、ポロックも、この同じ方法で展示してきた。 つまり、パッケージングとしては、明らかに「芸術」の古典的様相を保っているのである。
そうすると、何が起きるか。すなわち、鑑賞者は、「普通の展覧会」だと思って、足を運ぶ。それも、ある程度、その時代の美術の潮流に通じている人ならば、たくさんのコードを知っている。
それは、美術を観る上でのコード、美術史の知識や、美術の潮流に対する知識とも言い換えられるだろう。 



 例えば、キャンバスに荒々しい筆致で、ひとつの円が描かれていただけの作品が展示されていたとしても、その美術に通じている鑑賞者は、
「これは、ミニマリズムの伝統を受けながら、抽象表現主義的技法を取り入れている。そして、この円は、東洋的な宗教、例えば禅に対する関心を表している。だから、この絵はミニマリズムと抽象表現主義の間に横たわる、東洋的神秘主義という共通項を、示唆したものだ。う~む、実に興味深い」
などと、美術のコードを参照しつつ、理解できる。


 そして、ウォーホルは、展示形式としては、美術の古典的なものに則っている。そして、鑑賞者が美術に精通している場合は、様々な美術的コードを用意して、「今回はどんなコードで読み取ろうか」と考えながら美術館に足を運ぶだろう。
 しかし、コードを準備してきた鑑賞者は、行き止まり(デッドエンド)に直面する。
 行き止まりをコードという言葉を使って説明すれば、「コードがない」ということである。  「コードを知らない」ではない。「新しいコードだ」でもない。「知らないコードだから学習しなければならない」ということで解決するわけではない。

なぜなら、「コード自体がない絵画」を、コードを使って読み解こうとしても、当たり前だが、不可能だからである。ウォーホルの絵画は、別の手段で読み解かねばならない。
つまり、発想の転換が必要になる。それは、「コードのない絵画」の発見にほかならない。
 

では、ここで、再び、『文化記号論』から引用したい。


「詩人は日常的なことばの「決まり」をしばしば逸脱する形で表現を行なう。日常を超える新しい意味の創造のために、日常のことばの枠を破ることが必要だからである。したがって、読者が日常のことばの枠の中にとどまっている限りは、十分に意味が読みとれないということになる」[x]

 「読者が日常の枠の中にとどまっている限りは、十分に意味が読みとれない」とは、現代美術に起きている現象を(詩と美術というジャンルは違うにせよ)、的確に表している。
よく見受けられる現象はある。ここでは、展覧会場は、日常とかけ離れた「異空間」となる。



 しかし、それはむしろ問題ではない。たしかに、ウォーホルの絵画は、「日常的なことばの枠」では、捉えきれないだろう。では、それが、「決まり」を破っているからなのか。たしかに、先に述べたように「シニフィアンには必ずシニフィエがある」という「決まり」はやぶっている。
しかし、破り方はそれだけに留まらない。その「決まり」の破り方が、かなり複雑で、捉えにくいものであることを、これから検証したい。 



 例に挙げると、フランク・ステラなどのオブジェは、箱が壁に設置されているだけのようにも見えるので、理解が難しい場合がある。日常的な「決まり」からは逸脱しているし、20世紀初頭までのピカソなどに代表される美術的な「決まり」からも逸脱している。
つまり、現代美術の文法を知らないと、理解不可能な可能性が高い。しかし、これがミニマルアートを土台にした、ある種の抽象オブジェだと、文法を知った上で、その歴史をきちんと学習し、再度、その作品を観ると結構、感動する人の数は増えるだろう。 



 しかし、ウォーホルはそうではない。現代美術の文法を知ったからといって、感動を呼ぶものではない。さらに、伝統的な美術の文脈からも逸脱している。

美術の文法として、日用品をモチーフとして扱うのは、明らかな「逸脱」である。しかし、これは「分かりやすい」逸脱のタイプである。「リーゼントでシンナー吸っていれば不良」というような、安易な社会規範からの逸脱と同じようなものに過ぎない。 



 ただ、複雑なのは、ウォーホルの逸脱の仕方は、「三重に逸脱している」ことである。

一つ目は、「美術の歴史からの逸脱」。これは分かりやすい。
そして、二つ目は、「一般大衆からの逸脱」である。キャンベルスープを描いた時点で、ウォーホルは一般大衆と、関係を持たざるを得ない。(アニメキャラクターを描いた村上隆が、コミケなどのアニメオタク文化と関係を持たざるを得ないのと同様に。そして、村上がオタクからバッシングなどの「反応」を受けたのと同様に) 一般大衆も、「なぜ、これがキャンバスに描かれると芸術なのか」 という素朴な疑問を抱く。
つまり、一般大衆の「常識」とも逸脱してしまっている。
最後に、三つ目、これは先ほどの繰り返しになるが「絵画にコードがない」という、大きな「表現の基本からの逸脱」をしている。
これは美術業界のみならず、あらゆる「表現に関わる業界」に対する逸脱である。 

 このように、「詩人のことば」が、一般大衆には分かりづらく、その原因は常識的な文法やコードを無視しているからだ、という「芸術家の逸脱」。
それと、「ウォーホルの逸脱」の仕方は、似ているようだが、複雑性や構造が違う。そして逸脱の対象も違う。そして、どの逸脱の仕方も重要である。


一つ目(美術の歴史からの逸脱)と二つ目(一般大衆からの逸脱)は、「ポップアート」と命名され、認知されることで、一応、美術界からも一般大衆からも、逸脱をまぬがれる形にはなった。(もちろん、これにも解決していない問題はある)。
しかし、さらに、三つ目の逸脱(「コード」が表現の中に存在しないこと)。これはどうであろう。これは、逸脱を、未だにまぬがれていない。そして、永遠に逸脱をまぬがれる可能性はない。



 ウォーホルは「謎の存在」だと言われるが、それは、この三重の逸脱に起因する。そして、繰り返しになるが、三つ目の逸脱が、その「謎」に於いては、最も重要である。

 一つ目と、二つ目(美術界と大衆社会、両方からの逸脱)が、あまりに明白で分かりやすいので、そこからウォーホルを捉えようとする向きも多く見られるが(別に私はそれを否定するわけではない)、それは「謎」の本質とは、関係しているようで、実は無関係であることを、ここで主張せねばならない。





「謎」の本質は、「コードの不在」である。


そして、この謎は、美術界ならず、あらゆる人々を引き付ける謎であるのも、また自明である。ウォーホルのアトリエであったファクトリーに、美術関係者ならずとも、多様な人々がウォーホルに吸い寄せられるように来ていたように、ウォーホルは多くの美術関係者「ではない」人からも、「謎」として捉えられた。

 なぜだろうか。それは、絵画でなくても、世の中に「コード」は無限に存在し、当たり前のように、人間は、それを読み取って暮らしているからである。
だからこそ、「脱コード性」を持った存在は、あらゆる者に対して「謎」となり得る。 

 ウォーホルに関する著作に関しては、決して絵画だけでなく、ウォーホルの「言葉」に焦点を当てたものも、多く出版されている[xi]。それも一つの例である。

あらゆる者から「謎めいた」印象を与える人物。それは、三重の複雑な逸脱、とりわけ表現からの逸脱、つまり、コードからの逸脱に起因することにほかならない。


では、もう一度、整理しよう。

 コミュニケーションに必要なこととは、まず、「伝達」と「表現」。表現は、正確な「記号」(「記号」=「記号内容(シニフィエ)」+「記号表現(シニフィアン)」)によって、初めて成り立つ。
それを補足するものとして、「話し手」と「聞き手」の背景となる「文法」。
そして、記号を受け取る際に、「話し手」と「聞き手」が、同じ「コード」を参照していること。
これらが成り立って、初めてコミュニケーションが可能になる。言葉にすると複雑なようだが、実際に我々は、これら全ての条件を無意識に満たして、コミュニケーションを日常生活で行なっている。 



「日常的なコミュニケーションは常に「近似的」なものであり、日常的な場合であるからこそ、近似的な一致で一応すんでいるわけである」[xii] 
 
 つまり、コミュニケーションは、近い者どうし(ex.友達、家族など)が行なうほうが、文法を分かり合い、同じコードを参照しやすいため、より成功する確率が高くなる。
 しかし、ウォーホルにおいては、これは違うのではないか。ウォーホルはキャンベルスープを描く。これは、大衆と「近似的」と言える。少なくとも、抽象画よりは近似的だろう。しかし、それは、「一見」近似的に感じるだけである。
 ウォーホルの絵画においては、近似的だからといって、作品と鑑賞者の間で、距離が縮まることはない。むしろ、近似性ゆえに、距離が遠のくのではないか。 


 理由を述べよう。ウォーホルが扱うモチーフは、シニフェイアンとしては、スーパーマーケットやメディアなどで見慣れたものである。また、「文法」の問題も、キャンベルスープは、「見慣れたスープ缶」なので特殊な背景など存在しない。スープ缶はスープ缶である。特殊な背景、例えば、歴史的な価値があったり、入手困難ゆえに所持していることである種のステータスがあるものでもない。
 誰もが知っている「あの」スープ缶である。


 ここで重要なのは、「あの~」と言える存在とは、そこに背景がない、もしくは「誰もが知っている背景があるが、いちいち言及するまでもない」ものに限られるということである。
 そして、ウォーホルは「あの~」と呼べるものしか、モチーフとして扱わない。(ex.「あの」マリリン、「あの」エルヴィス、あの「事件」)


 では、<キャンベルスープ>に於ける、「コード」の問題を考えてみよう。キャンベルスープについて、鑑賞者と作者、お互いが参照すべき、暗黙の了解。無論、作者も、鑑賞者も、お互いキャンベルスープ自体は、「知っている」。しかし、それが何だと言うのだ。ウォーホルはキャンバスにそれを描いた。鑑賞者はそれを観た。お互いの接点はここで終了してしまう。
 つまり、ウォーホルと鑑賞者の間をつなぐ、コードがそこで途切れる。

例えば、キャンベルスープが、とてもロマンティックな色彩やタッチで描かれていたり、ノーマン・ロックウェルが描くアメリカの日常のように「古き良きアメリカ」をノスタルジックに表現していたりしていたら、そこに新たな「コード」を見出せる。

 鑑賞者は、「こうやって、キャンベルスープを描くかあ。こういう描き方されると、明日から食べるキャンベルスープの観方が変わってしまうなあ」と、描かれたモチーフに対して、これまでとは別の視点を提供され、それについての感想を述べられる。新たなコードで作者と鑑賞者は結ばれる。
これが、通常の絵画を通しての、作者と鑑賞者の関係であるとすると、ウォーホルの場合は、輪郭を正確に、色も変えず、スーパーマーケットで見るイメージそのままで描いているゆえ、鑑賞者は無言にならざるを得ない。
つまり、鑑賞者は何も発見しない。キャンベルスープに対する感情も「変化」しない。なぜなら、(繰り返しになるが)鑑賞者と作者を繋ぐ新しいコードが、無いからである。鑑賞者の内面、身体的変化はコードを通してしか発生しない。それほど、コードは重要なものである。 



 ここで、<キャンベルスープ>に於ける、「記号」「文法」の概念に逆戻りしてみる。
記号としてはどうか。ただのシニフィアンがそこに存在するだけである。共通の「コード」がなければ、シニフィエを読み取る通路が与えられないのである。

文法としてはどうか。ここがトリックだと考える。「文法」はある。広義の文法ではあるが(ここでは狭義の文法とは、現代美術の文法を指すとする)、それがスーパーマーケットで売られているということ、観たこともあるということ、食べたことすらあるということ、宣伝でよく見かけるということ。
キャンベルスープに関する情報は有り余るほどある。その意味で、非常に「近似的」なものである。(「あの」キャンベルスープと呼べる。)



この意味で、文法はある。しかし、それが意味を持たない。「知っている」からである。「よくよく知っている」からである。普通、「よくよく知っている」ものに関しては、「それ以上の情報」が欲しくなる。「知らない情報」が無くては、何も新しく得るものが無い。
つまり、よく知っている文法(背景)は、もう「知っている」ので、新たな「発見」が欲しい。これが普通の考え方である。



 しかし、ウォーホルは、「それ以上の情報」を与えない。いわば、「そのまま」の情報しか与えない。




では、これを文法的に解釈するとどうなるか。それは、文法が「ない」ということを意味する。なぜなら、文法とは、必要とされて初めて「文法」となり得るからである。全く必要とされない、参照されない「文法」は、「文法」ではない。活用されて初めて文法となる。
この観点からいくと、<キャンベルスープ>という絵画に文法はない。よく知っている、近似的なものであるにも関わらず、だ。
いや、言い換えれば、よく知っている、近似的なものであるゆえだ。 そして、参照すべき文法がないと分かった鑑賞者は、同時に気付く。この<キャンベルスープ>という絵画は、「何が言いたいのか、理解不可能だ」と。
それこそが、<キャンベルスープ>の放つメッセージである。 



 このように、ウォーホルの絵画は、モチーフが日常生活に近似的であるにも関わらず、いや、日常生活に近似的であるがゆえに、コミュニケーションに必要な条件、「記号、文法、コード」この三つとも、全て満たしていない。

よって、ウォーホルの絵画とコミュニケーションすることは、不可能である。


これまで見てきたように、ウォーホルの絵画は理解ができない。何も意味していないからである。<キャンベルスープ>は、結局、何も指し示すものを持っていない。鑑賞者との繋がりであるコードは、永遠に断たれたままである。
もうお分かりのように、ウォーホルの絵画は、意味のネットワークから逃れる、もしくは、隠れる条件、「何も指し示さないこと」をクリアしているのである。
コードを持たず、文法も持たず、記号としての成立条件であるシニフィアンとシニフィエの片方、シニフィアンしか持っていない。
 このように、ウォーホルの絵画は、「何も指し示さない絵画」である。


[i] 池上嘉彦 山中桂一 唐須教光 (1994) 『文化記号論 ことばのコードと文化のコード』 講談社p.13
[ii] 同上 p.14
[iii] 同上 p.14
[iv] 同上 p.14
[v] 同上 p.15
[vi] 同上 p.15
[vii] 同上 p.16
[viii] 同上 p.16
[ix] 同上 p.16
[x] 同上 p.17
[xi] Andy WarholMike Wrenn (1991), Andy Warhol: In His Own Words (In their own words) ,Omnibus Pr. などがその例として挙げられる
[xii]池上嘉彦 山中桂一 唐須教光 同上 p.17


© Tatsuyuki Itagaki